学問を楽しむ心
学問は難しいものだから面白い。そして学問は非常に難しいもので、どうしても難しいことをやりたいと願う人だけが学者の資格を取れると小林は言っている。むずかしければ難しいほど面白いというのは誰にでもわかることですよ、そういう教育をしなくてはならないと僕は思うと小林は続ける。
この最初の導入で彼ら二人の会話を読みながら、30歳くらいの時に友人と話をしたことを思い出した。彼とは朝までお酒を飲みながらだったが喧々諤々と議論したことを覚えていて、彼は私の主張が全く受け入れられず、頑なに頭を縦に振らないことに納得がいかないようであった。おそらくそれを機に嫌われてしまったのではないかと思っているが、おそらく彼は今でも私を分からず屋だと思っていることだろうと思う。彼が言うには私は人にもっと学問を教えろということを言っていた。30歳イケイケだった私はそんな場合じゃない、自分が追及する学問をやることで精いっぱいであり、そんな余裕はみじんもない。そもそも教えてほしいっていう人に学問を教えることはできないという考え方だったからだ。どこかに学問をする資格なんてものがあるわけでもない、学問をするというのは意思と姿勢だけである。教えるなんてとんでもないと少し丸くなったが今でもそう思うことが多々ある。だから大学まで来て勉強教えてほしいというのは違うのよと言いたい。大学には環境がいくらでも整っているから好きなだけやりなさいよ。しかしこれは自分が無明であったんだと本書を読んで思い起こした。しかしながら、日本が貧しくなってきて変化が速い時代になりより成果が求められる時代ではそういう余裕も無くなってきたのかもしれない。。
しかし読み進めていくと彼らが持っている問題意識と私が今現在持っていることが全く一緒だったことがだんだんわかってくるのだが、これには素直に驚いた。なんと本書は1965年位に出ているものだからだ、まさに現代で起きていることではないか?この本を読んで自分の学者としての立ち位置が明確になったと思う。
無明ということ
人は自己中心に知情意し、感覚し、行為する。その自己中心的な広い意味の行為をしようとする本能を無明というと岡が話している。また人は無明を押さえさえすれば、やっていることが面白くなってくるということができると。
岡はいう。それほど私はピカソを高く評価しておりません。ああいう人がいてくれたら、無明のあることがよくわかって、倫理的効果があるから有意義だとしか思っていません。ピカソ自身は、無明を美だと思い違いして書いているのだろうと思われます。(中略)自我が強くなければ個性は出ない。個性の働きを持たなければ芸術品はつくれない、と考えていろいろやっていることは、いま日本も世界もそうです。良い絵がだんだん描けなくなっている原因の一つだと思います。
国を象徴する酒
ここでは小林が日本酒がうまくなくなった。酒に個性がなくなったという。僕らが若いころにがぶがぶ飲んでいた酒とはまるっきり違うのですよ。樽がなくなったでしょう。みんな瓶になりましたね。樽の香というものがありました。
ここでは岡が個性を重んずるということがどういうことか知らないのですねと。おもに小林が日本酒も小説も絵と同じでダメになっているという。世界の知力が低下しているとも。個性を競わせて、物を生かすということを忘れて、自分が作り出そうという方だけをやりだしたという。
ここらへんの文章はロジック的には世界のものが良くなくなってきた、知性の低下、個性、無明という問題意識について話している。
数学も個性を失う。
ここでは話が個性についてより深堀していくように議論が進んでいく。岡が言う。それがいわゆる個性いうもので全く似たところがない。そういういろいろな個性に共感が持てるというのは不思議ですが、そうなっていると思います。個性的なものを出してくればくるほど、共感が持ちやすいのです。
また以下の部分も面白い。小林が聞く。数学のいろいろな式の世界や数の世界を言葉に直すことはどうしてできないのでしょう。岡は、研究している途中のものは、言葉では言えませんが、出来上がってしまえば言葉で言えるのです。だから、できるだけ言葉で言い表して発表している。
この点にはかなり納得がいった。問題がわかったと思い論文にしてしまったことは言葉にできる。これば物理学でも同じようなことかな。論文にしたら自分が一から問題提起してすべて解いた問題なので専門家にも一般の人にもどのレベルに合わせても言葉に言い表すことができる状態になる。さらにその物理の歴史上の重要性、立ち位置などもわかる。
ここまででは個性や知力低下が問題意識としてあることが二人の会話でわかってくる。数学の体系を教えることが大変になってきていることをいう。これは今でも当てはまるのがおもしろい。物理でも過去10年の深化と進化といものはものすごくとても大学院で教えられるものではない。本では1930年以後の30年間の論文を大学院では読ませることはできないと言っているが、今では3年間の論文でも難しいだろう。まあそこは本質ではない。文脈で言うと本質は次の岡の言葉でこれが現代人にも刺さる。
世界の知力が低下すると暗黒時代になる。暗黒時代なると、物の良さがわからなくなる。真善美を問題にしようとしてもできないから、すぐに実社会に結びつけて考える。それしかできないから、それをするようになる。それが功利主義だと思います。西洋の歴史だって、ローマ時代は明らかな暗黒時代であって、あの時の思想は功利主義だったと思います。人は政治を重んじ、軍事を重んじ、土木工事を求める。そういうものしか認めない。現代もそういう時代になってきています。
科学的知性の限界
小林はいう。バッハの世界はこうであろうとか、言葉で表しますよね。最後には言葉にするわけです。岡はいう。文章を書くことなしに、思索を進めることはできません。書くから自分にもわかる。自分にさえわかればよいということで書きますが、やはり文章を書いているわけです。言葉で言い表すことなしには、人は長く思索できないのではないかと思います。
ここでは長くなっていて引用しないが、岡が自然が本当にあるかどうかわからない。自然があることを証明することは現在理性の世界といわれている範疇ではできない。ということ言う。数学は知性の世界のだけに存在していると考えてきたが、数学は知性の世界だけには存在しえないということが人は4000年かけてはじめてわかったという。実際に考えてみれば矛盾がないというのは感情の満足であるという。カント哲学で言っていることと似ているように思えるが岡は違うルートで似たような考えを導き出しているように思えた。
しかし驚いたのはそのあと岡と小林との対話は続き。小林はこうまとめる。わかりました。そうすると、岡さんの数学の世界というのは感情が土台の数学ですね。岡は答える。そうなんです。
人間と人生への無知
ここでもやはり世界の知性が下がっているとしか思えないと岡と小林は言う。数学の論文を読んでも音楽を聴いても、小説を読んでもそう結論するしか仕方ないという。
その後、ベルグソンとアインシュタインの衝突。感情を元にした科学の議論、アインシュタインが相対性理論を発表して原子爆弾が広島まで落ちるまでわずか25年しかかかっていないこと。それから時間とは何かという議論についてどういう風にかんがえるかなど。そしてキリスト教への議論そしてデカルトの哲学にわたって議論していく。
まだまだ三分の一くらいだが。今回はここらへんで終わろうと思う。読んでいて思うのは二人の思考がかなり深いながらも情報量の密度が高いということ。なかなか丁寧に読まないと僕の場合は言わんとしていることがわからなかった。
まずは学問とはどういうものか?という議論から始まり、非常に難しい学問だがどうしても難しいことをやりたいという人がやる。また学問をやるということは無明であるということ。つまり自己中心に知情意し、自己中心的な行為だということを話しているが、無明を抑えれば学問は楽しくなるという。そこから個性の話になり個性はあればあるほど共感が得られるということについて話していて個性とはどういうものだったか考えさせられるようになっている。数学という自然科学の学問をするうえで最後は言葉にしなくてはいけないということが直感とは少し違った。なるほどと今は思っているが正直まだ腑に落ちてはいない。科学知性の限界ではカント哲学の純粋理性批判のようにかっちりとした理論化はされていないが深い哲学が提示されていた。知情意にはかなりのヒントがあるように感じる。
ここまでで二人の問題意識は僕が理解したところでは世界の知性が低下しているということ。数学という自然科学のど真ん中の学問ですら知性だけの問題ではないのだが、現代人にはそれすら見えず、個性がなくなり、余裕がなくなり、実利にしか興味がなくなる功利主義がはこびっている。学問をする余裕や力がなくなっていて暗黒時代に向かっているということを述べられていると思う。まさに理性、感性、知性がなくなるからものが考えられない。
コロナにしても経済にしても政治にしても考える力がなく余裕が全くないので功利主義が蔓延る。なにやら今の時代のことを議論しているような気がするのだが。。。65年経って。今は暗黒時代であるということがハッキリとわかった。