破壊だけの自然科学
この章では岡が特に現代物理学における数学者の立場からの批判について書いてある。特に相対性理論について数学的立場からの批判を行っている。僕の理解不足か勘違いであるかもしれないし1965年以前のことだからしれないが岡の批判は当てはまっていないと思う。岡は相対性理論が実験不可のものであるから、物理学が近似的に実験が可能な物理学公理体系から超越的な公理体系になってしまい、物理が知的に独立していないという。彼は現在の物理学は数学者が数学的に批判すれば、物理学ではない。なんと言いますか、哲学の一種ですか。という。
そこで自然科学は破壊の科学で建設は何もしていないという。現代にいたってはなかなかこれには同意できないが、批判されることに対しては感謝できていろいろなことが考えられる。数学者と物理学者はまだ話していないと言っているが現代でもそのような気がするが。。残念ながら。でもトポロジーとかは少し進んでいるのか。僕もすこし考えやネットワークを広げなければと思う。数学者、物理学者、化学者とか分野にわたって喧々諤々と議論するっていう場面は現代ではあまりないしそれはこの時代からすでに始まっていたのかもしれない。そう考えると自分の物理学の研究でも新しい見え方とか自分にしか出来なさそうなこと一生懸命数学者とコラボしてみるとか考えられるな。。少し頭にとどめておきたいところ。
岡がいう。大きな問題が決して見えないというのが人類の現状です。物理で言えば、物理学的公理が哲学的公理に変わったことも気づかない。
ここでの批判は現代でも起きていることでもある。最近気になって読んでいたのはLost in Mathという本ですこし前に読んだので内容は忘れてしまっていたが基本的には対称性にというものに取りつかれて標準モデルを構築している理論物理が実験結果をうまくとらえられていない。物理学の立場ならば実験結果があればそれに合うように理論を再構築しなければいけない。しかし自然には美しい対称性があるべきだと思い込み受け入れられないということが現代でも起こっている。自然は我々の視点とか美意識でみてあるべき姿でいるわけではない。しかしそうと思いこむんでしまう。自然は美しく対称的であると。いままでもそれで沢山のことが説明できてきたと。しかし、そしてそれを元に学理を構築しようという試みはすでに物理学ではなく哲学の一種であるという批判が当てはまってしまう。よく考えると物理学はこういった状況に何度も歴史上見舞われてきてそれでも進化してきたのかもしれない。物理学は実験と理論双方があって理論が実験をないがしろにせずに学問を構築していくからこそ物理的公理体系であるということか。やはり。
アインシュタインという人間
おそらく岡は物理学者が嫌いだ。自然科学が弊害が多いと思っている。おそらく岡も小林も物理学をわかっているとはこの本を読んでいるうえでは思えないが、一つの発見としてはこの時代でももう専門分野で分断は起きていることがあるように思う。正直、岡も小林も無明と知性の低下を批判しながらも自らここに落ちてっているのではないかとすら思う。この本のテーマと彼らの会話を聞きながらやはりいろいろなことを学んでおいて学問もある一程度の余裕を持ちながらやらないと逆に当たり前のことに気が付けないようになっていくのではないかと思った。ハイゼンベルグの原理にしてもあの時代、ハイゼンベルグをはじめとする理論物理学者とカント派哲学者の対決を見ていてもまだまだ物理学者の量子力学の哲学的解釈もできていなかったし哲学の量子力学の理解も進んでいなかったことをハイゼンベルグの部分と全体を読んで思っていたが、数学と物理はそれ以上の差があったのかもしれない。あの頃はまだそういう時代だったのかもしれないと岡と小林の話を聞いていて考えた。
美的感動において
この章は正直あまりわからなかった。詩と絵について話をしているが両方とも疎いせいか話が分からなかった。
ただ、岡が章の最初に書いていた、日本は、戦後個人主義を取り入れたのだが、個人主義というものは日本国憲法の前文で書かれているような甘いものではない。それに同調して教育まで間違ってしまっている。その結果、現状はひどいことになっている。それに気づいて直してもらいたい。
ここには本書の最初から続く個性というものがわかっていないという二人の考え方がここでも続いていることがわかる。いろいろなテーマでものすごい情報量で話しているが根柢の問題意識というものは一貫しているという気がする。
人間の生きかた
ここでは人間の生き方というところではあるが主に文学特にトルストイとドストエフスキー、日本人は本居宣長などについてはながら理論とか体系とかは欧米から学んだものでもともと日本人には首尾一貫して理論をこしらえるなんて考えがもともとないんだということを小林がいう。
小林が言う。僕らも不思議なことだが、振り返ってみますと、20代でこれはと思ったことは変えていませんね。それを一歩も出ないのです。ただそれを少し詳しくしているだけです。
うーむ。なるほど。わかる気がするがわかりたくない気もする。研究を進めていくうえで博士論文の時にやったことがとても後々に影響することと同じことか?あの20代の頃に考えていて疑問に思っていたことの延長上に生涯の研究のキャリアがあるのか?ここはこの言葉についてよくよく考えておこう。むしろそこから抜けられないのであればこれまでの研究をしっかり復習して再度研究の行く先を見るということも大事かもしれない。新しいことをどんどんやりたくなっても来るがそもそも何がしたかったかと見直してみようと思う。物理で何が楽しいと思っていたか?なんで研究しているか?自分の性格も含めて時々考えてみることは結局、専門性と個性を見つめ直すことになり、研究者として重要なことだと考えるようになってきた。
批評家である小林がトルストイとドストエフスキーが両方とも偉いし、それは数学者である岡がリーマンとポアンカレどちらが好きかと小林に論じたって仕方がないですよといっていてこういう感覚は大事だなと思った。とにかく学者としても作家としても素晴らしいものを生み出したことは素直に受け入れてどのような分野でももう少し感覚的に評価していいのじゃないかって思った。この本を読んでいることがまさにそうだが。学者としての態度をここら辺の二人の掛け合いから学んだ。
無明の達人
ここではトルストイとドストエフスキーの話の続きながら、無明がテーマになっている。無明を知らないとむしろ極めないと物が見えない。ドラマにならないという。面白かったのはその後の議論でピカソもスペイン人を理解しないとわからないなと小林が言ったところから、やはり日本人には結局日本的なものしかわからないのだと岡と小林は言う。日本人が知れるものはやはり我々に関するものかもしれない。そういった点で前の章の本居宣長の話を思い出し、日本人はそもそも理論と体系なんて気にしなくて自分たちの考えを発展させてきたものだし、理論とか体系というのは西洋文化から借りて学んできたんだなということにもつながった。
いずれにせよ。文学を読んでこういう風に議論できるのは楽しいと思うから、やはり本はたくさん読んでおきたいなと思う。旅行もたくさんしておきたい。いろんな疑似経験、実経験をしていくと楽しくなるのだと感じる。
一という概念。
ここでまた数学的哲学的な議論に戻っていく。小林が数学者における一という観念という形で話し出したところで流れが変わる。岡は一を仮定して、一というものは否定しない。一はあるのかないのかわからないというが哲学的には一という数学的観念はPrioriであるということだろう。つまり一という意味とかなぜあるかというものは理性ではわからない。
そのあと議論は2や3など順序数の話になり、そうやって一から増えていく。単細胞から20億年かかって進化した人間については何もまだわかっていないよねという話になってくる。天才が生まれるのは環境か遺伝かという話になるがここら辺は現在の方が知見は溜まっているだろう。しかしいつの時代でも重要な議論なのかもしれない。議論としてはシンプルだがそれを話すのに科学、宗教、哲学の知識にわたってさらっと議論できるのが情報の密度の高さを示している。
ここらへんで3分の2ほどで今回はここらへんで終えようとおもう。次回は残りの部分を読んで書いていくつもりである。