本のレビュー11 【未来経済都市 沖縄】安里昌利著

最近沖縄が恋しくなって沖縄の経済について興味あったので購入して一気に読んだ。

沖縄には人生で二回行ったことがある。一回目はもう15年以上にも前になるかもしれない。大学の卒業旅行だ。サークルの同期といったときで同期には計画から何から何まで任せきりで参加させてもらっていていまだに申し訳なく思っている。どこに行くか夜話し合ったり、自分の研究計画書を見られたり、卒業旅行中も研究のことを忘れられなかったり、いろいろなことを覚えている。スキューバダイビングではパニック障害になった思い出がある。。。楽しかった。また行きたいと思った。

二回目に行ったのは実は最近だ。もちろんコロナの前だった。琉球大の共同研究者とOISTの研究者を訪問しに行ったときだ。滞在期間は短かったがまた機会があったら行けるだろうと思っていたらコロナになってしまった。OISTも賛否両論あるだろうなと思ったが面白い研究所ができることは素直に良いなと思う。今のところ私のいる環境も悪くないので是非とも行きたいという感じではないが。また分野は狭いと思うのでOISTにせよAPUにせよ沖縄で言えば琉球大とか日本で言えば東大とか本格的に文理にわたり総合的な基礎研究ができる大きな機関と比べるのはいかがなものかと思う。

本書は出版はコロナ前の2018年11月に書かれたものである。著者は沖縄銀行の元頭取の方で沖縄県宜野座村出身生まれ。1973年に琉球大学を卒業されているみたいなので沖縄返還後の経済の発展とともにお仕事をされてきた方だと思う。おそらく2018年頃はイケイケの沖縄経済だったと記憶している。本書を読む前に『沖縄から貧困がなくならない本当の理由』樋口耕太郎著を読んでいたので本書を読んだとき申し訳ないが少し良いところを書きすぎじゃないかと思った。沖縄には発展してほしい。そしてうまく行っているところはたくさんあるだろう。一方でこのポテンシャルでなぜこの程度なのかというところもありその点は樋口氏の本で学んだ。沖縄は日本の縮図みたいなところがあり、沖縄の問題は日本の問題であり沖縄が解決できるのなら日本にも参考になることがたくさんあるはずだ。

本書で特に気になったところをここに書き残していく。私は福岡出身で大学から東京、博士号取得後はアメリカ、そして今はオーストラリアに来たので正直沖縄の土地勘など全くない。逆に沖縄好き好きバイアスを全く取り除いてグーグルマップを見ると沖縄は北部が全く発展していないように見える。これにはいろいろと理由があるのだろう。そしてなぜ鉄道が走らないのかを考える。実際には鉄道はあってなくなったのだと。今はゆいレールがあるがたったの二両編成で距離も長くない。本書を見ると鉄道が復活するかもしれないと書いてあるが、軽くネット上で読んだところ、ゆいレールのこれ以上の拡張もたやすくはない。もし鉄道ができて南北に人の流れが活発になると沖縄はさらに発展するのだろうがそこはここ10年位のスパンでは大きなことも起きそうにもない。北部の発展に勢いがついてくるとまた違って景色がみえてくるのではないか?渋滞が多いことは残念だ。

あとは基地の返還については本書で学んだが返還地を使って再開発されれば沖縄発展していくだろう。いろいろとアイデアがあることは本書で学んだ。一方で少し調べてみるとこの返還もそんなに簡単に進んでいくものではないなと思った。一刻も早く基地が返還されて開発が始まると沖縄の発展も早まるはずだなと思った。

沖縄は人口が増えていて出生率も高い。日本の少子化にブレーキをかけるかもしれない。ここで沖縄の出生率を見てみると確かに第一位。もうひとつ気が付いたのは九州は全般的に高い。福岡が勢いがあるのもこれも原因があるんじゃないかと思った。結局視点が福岡出身か。

沖縄がアジアの中心で国際物流拠点や観光を足掛かりに地理的優位性を示しているが、ここでライバルとしてどうしても僕の出身地福岡が気になってくる。同じ論理を福岡も使っていた。今のところ福岡市長の方がビジョンを持っている気がする。物流と観光では沖縄は勝てるがビジネスでは福岡に分があるのではないか?九州としてとらえると観光でも沖縄と戦えそう。一方で沖縄がシンガポールなどを参考にして空港と港を重要視しているのは本書でなるほどと思った。島の発展は空港と港がボトルネック。しっかり投資をして世界最高水準のものができれば沖縄は重要なところになるだろう。コロナ禍でもしっかり投資をし続けてほしい。

後意外と内地から遠い。福岡からでも近くはないなって正直思った。実際に行くとわかる。福岡からちょっと飛行機で行こうかなって思ったがそんなに簡単じゃなかった。

OISTには期待しているが一方で本当にインパクトが残せる仕事ができていてそれが琉大の様に他分野にわたってできてくるかというとなかなか難しいのではないか?高いお金を出して優秀な人々だけを集めてもしっかり若い人を集めて実際に手を動かす大学生・院生そしてポスドクなどが活動しながら研究分野も広がったほうが良いし。そして高い補助金を入れ続けないで成果を出せるようなサステイナブルな組織になる必要はあるのではないか?僕の印象だと留学している院生とかもあまりに日本に残って研究していくような意見を持っている人は少なかった。たとえば海外の名門大学に行く準備をしている学生の話などはよく聞いた。そういう感じで2、3年沖縄にいたって良い研究できるかなって感じがした。

本書ではスタートアップも開業率が高いことを示している。女性起業家が多いことは大変すばらしい。一方で本当に質の高いスタートアップが生まれていって成長していっているかどうか?沖縄には地場の成長しない競争もしない外に行かない大企業が多かったのではないか?一方、これから日本でそして世界で戦えるスタートアップが出てくると変わるかもしれない。

沖縄はハワイよりも観光客が多くなったが一人当たりの消費金額が少ない。それは滞在期間によってしまうからだ。今はハワイが先にコロナから復活して沖縄は全くの劣勢になってしまった。とにかく沖縄は観光業から立ち直ってしっかり投資をしてなるべく地場の産業と経済を作っていかないとなかなか難しい。コロナ後どうなるか?コロナで若い人が逆に残り地元に人材が残るようなことになればいいが。

また沖縄は最低賃金が低すぎる。沖縄の経済発展に伴い、他県に先駆けて最低賃金をあげていって日本中からも労働者が殺到するような場所にしなければならないんじゃないか?と思う。でもそういうことはやりたくなさそう。。沖縄の経済が好調でも沖縄では人より高い給料をもらうことを避ける文化があるという。競争で人に勝ってはいけないと。そうすると余計に最低賃金をあげて皆を底上げしていく政策が効くはずなのだが。みんなの賃金上がっているから上げましょうみたいな。

あとそれ関連では調べてみると宮古島もポテンシャルという点ではおおきいのではないか?5万人程度で2015年から2020年で人口が増えたというが以外にもそれまではずっと減ってきていたことを知って驚いた。。

沖縄はポテンシャルしかない。本書を読むとそれがわかる。じゃあなぜ今までそれがポテンシャルのままなのか?これからも沖縄には注目してきたい。できることがあれば応援していくつもりだ。

本のレビュー10 【ゲーム理論入門の入門】鎌田雄一郎著

ゲーム理論は興味があるけど毎回入門書などを読んでわかった気になった後、入門とプロレベルの差に思いをはせて勉強しても無駄でしょうと思ったりする。まあでもまた入門書を読みだしたり。やはり興味があるようだ。いつもいつかは勉強しなおしたいって思っていてまたそのサイクルが来たようでこの本を手に取った。正直に本を手に取る前は入門の入門はさすがに要らんでしょと思ったがやはり専門家が膨大な知識量を元に入門書を書いてくれたことでものすごい勉強になった本だった。

まず1章部分でこの本を買った価値があったと思う。ゲーム理論が意思決定をよりクリアにする方法論だということは知ってはいたが1章で3つの意思決定問題があることを示してくれた。これにより自分が明らかにしたいもっと知りたいところがわかってゲーム理論をやっぱり勉強したいというモチベーションが上がった。

まずは一つ目としてカジノでルーレットのどのスロットにボールが入るか当てることを例に挙げている。確率を考えてどうベットしていくかは計算ができる。したがってここからは客観的予想ができるそれを元に戦略を立てる。さらにいうと前もって準備できることである。

次に競馬でどの馬が勝つかはある程度データはあるもののそのデータをそれらのデータをどのように組み合わせて、どのような文脈の中で使い、どの馬が勝つか予想することは主観的予想である。

最後はジャンケンなど、相手がいる状況である程度データもあるが、文脈もある中で、自分が相手の出方を予想して意思決定する。さらに相手も自分の出方を予想して意思決定する。この状況を戦略的状況といい、ゲーム理論ではこの戦略的状況をゲームという。このもっとも難しい意思決定問題『ゲーム』で何が起きるのかを予想するのがゲーム理論の役割である。

第二章はナッシュ均衡について書いてある。ゲーム理論の中でもっとも基本的な概念であるが、この概念の本質をしれば一見似通っていない様々な状況の本質がシンプルな一つのフレームワークで分析できることを著者は示す。これはゲーム理論の醍醐味だという。

その後、ナッシュ均衡についてかなりのページ数を使って説明している。ナッシュ均衡がいかに大事な概念で大事すぎてもう言及されないほどになっているというのだ。このナッシュ均衡の章の中で囚人のジレンマというよくゲーム理論で出てくる例を挙げる。よく出てくる問題なのだがまず一つ目の論点として私がこの本で特に学んだのは多岐にわたる社会経済問題を我々は囚人のジレンマというフレームワークでとらえて、様々な状況の本質をシンプルなフレームワークにとらえ直して考えることができるというのがゲーム理論の面白さだということだ。もう一つはジレンマというものがあるのが当然だがゲーム理論で学ぶ結局そんなに世の中簡単じゃないよねというところだ。正直、著者の妻の夕食の支度で著者が参加するかしないかをこのゲームフレームワークでとらえたときやはり世の中単純ではないよなと思ってしまう。

そして第3章と4章とナッシュ均衡を少しづつ複雑な問題にしていっているように読み取れた。3章ではナッシュ均衡が一つではない場合を議論しカップルのどこの携帯会社を選ぶか問題を考える。4章ではナッシュ均衡が存在しない場合を議論しジャンケンを始めに議論し、ジャンケンに勝つ方法がないということがきっちりと結果として証明できることを示す。その後、実際にサッカーのPK戦でもそういった必勝法がないことも示されている。またカリスマ候補者と平凡な候補者が王道政策、外道政策をどのように選ぶかについて解説している。

5章に入ると少し変わってきてこれまでのように同時に意思決定するのではなく時間を追ってゲームを進行する場合について考えている。ここでは先ほどのカップルの携帯会社選定の例を挙げた後、バークレーでラーメン店一風堂、博多天神(そしてじゃんがら)の進出ゲームを考える。ここで初めてゲームの木が出てくる。ここでゲームの木の書き方のルールを書いてあったのは本書で初めて見た気がする。今まで自分は適当に考えていたな。きちんと書かないと意思決定には役に立たないのだなと例をだして示してもらった感じだ。ここでは当然場合分けで解が出てくる。

このラーメン屋さんの出店競争の解説で学んだことは理論的には正しいと思われることを押さえておくことは大事だとということ。これは個人的にも実際に経験したことで、現実世界で相手が自分の利益を確保するならこう行動するだろうと考えたが実際にはそう行動しなかったことでびっくりしたことがある。きちんと状況を分析してからこそなぜこの人はそう行動しないんだろうと考えられた。相手が利潤を最大化しない、利潤最大化していることを知らないという状況は社会では常にあると思う。だからといって自分が知らずにいるというわけにはいかないなと思った。

第6章にきて不完全情報ゲームについてだ。この章では意思決定点のどこにいるかわかない状況で意思決定を集めてセットにしている情報セットが示される。だんだん難しくなってきた。ここではセンスのないお金持ち、画家と画家の弟子の意思決定の画家ゲームが例として示される。その後、宮崎あおいと岡田准一の結婚から話題を始めてデートゲームを解く。

本の内容は大体ここで終わり。なかなか簡単な内容にまとめられているがイントロからだんだんゲーム理論の要素を一つ一つ加えながら書き進められていてなるほど入門書の入門とはいえよく仕込まれているなと思った。最後は参考文献が書いてあってこれからもっと読み進めていきたい場合の参考になった。

最後のおわりにでは著者が本を書いたきっかけを書いてくださっていてこのモチベーションには心を打たれた。私の祖父は両方ともなくなっているがこういう風に思うのは私の指導教官に対してかもしれない。先生がまだいろいろとわかるうちに彼をうならせるような成果を残しておきたいと思った。本書は大変勉強になって内容は入門の入門書でもゲーム理論のポイントに触れた気がする。これからいろいろな本を読んでいくにしても本書で学んだポイントというものは生きていく気がする。

本のレビュー9③【人間の建設】岡潔・小林秀雄

数学と詩の相似

ここは物理学と数学が関係しているせいか話は深いがとてもわかりやすかった。まず小林が岡に対し、あなたは確信したことばかり書いていらっしゃいますね。自分の確信したことしか文章に書いていない。これは不思議なことなんですが、今の学者は確信したことなんか一言も書きません。学説は書きますよ、知識は書きますよ、しかし私は人間として、人生をこう渡っているということを書いている学者は実にまれなのです。そういうことを当然しなければならない哲学者も、それをしている人が稀なのです。そういうことをしている人は本当に少ないのですよ。フランスには今度こんな派が現れたとか、それを紹介するとか解説するとか、文章はたくさんあります。そういう文章は知識としては有益でしょうが、私は文章としてものを読みますからね。その人の確信が表れていないような文章は面白くないのです。岡さんの文章は確信だけが書いてあるのですよ。

まあトップレベルの数学者と他の学者を比べるとおかしいとは思うが。ここはおそらく岡も小林にも共通している世界で起こっている知力低下への問題意識が根底にあると思う。つまり学説や解説を書くことは学者の仕事としては一部のことでそれしか言えないということが知力低下という意味だろうと考えた。例えば登山家がエベレストなどに登山成功して、道具は何を使った、気温は何度だったとか、ルートはどこを使ったかなどだけをまとめるようなもので、例えば山に登るうえでどういう精神的な準備をしたか、登山の途中でどういうことを考えたか?、また山を登るとはどういう意味を持つのか?総合的に知情意の興奮が言葉として表現されていないと意味がないだろう。その経験から何を確信したか、確信したことを書いてある文章がたくさん文章を読んできた小林には響くということだろうか。その人にしか確信できなかったこととかを垣間見れると確かに響くのかもしれない。

ここには大変重要なヒントが込められていると思っていて、私のような物理学者でも確信から論文になる。いくら良いデータがそろっていても確信がなければ文章は書けない。一体このデータと過去の研究から総合して一体なにがわかったか?ということが確信していないと論文は書けない。一方ででそれがハッキリしている場合は書けると思う。少なくとも書きやすい。ショーペンハウエルも『読書について』で言ったようにその確信があって文章を書けるというのが第一級だ。おそらく研究者は自分の全部の書いた論文でこの部分が確信で書いたものだということは当てられるだろう。一方でショーペンハウエルの言う第一級には当てはまらないが書きながら考えるということもある。書きながら少しづつ考えて確信につながる場合もある。前者が第一級であることだろうが明らかに私は第一級ではないと思う。おそらくそういう人が大半なのではなかろうか?現実的にはこれら二つの論文は多くの人では混ざっているだろう。

この章の後半では数学について岡が続けて説明しているが、納得できるほど理解できなかったがおそらくこれまでの文章も含めておそらく数学者は詩人の様に全く何もないところから形も何もないところから形にしていく。物理学者の様に現実を説明するために数学的概念や理論を使うということがない。そもそも物理学者は自然が存在するという仮定があるが、数学にはそれに相当するものがない。全く何もないところから形を作っていく。なので数学者は生涯を通して研究していく中で自分のなかに数学史と数学体系というものがあるが、物理学者にはそれがないのだろうと。

はじめに言葉

ここの章では西洋哲学側からみるとカント哲学的理性の働きをかいていると思っていて数学でも行き詰まりと解決の繰り返しがあることを言っていて問題が解けた後に新たな問題が出てくるとか行き詰まることでその中心的な問題がとけなければ次に進めないということがあるが、基本的には後戻りはないということだ。まさに理性の働きの別の見方だと思った。

その後は教育の話になっていて教師の給与が安いことが書いてあり。まさに現代でも全くそうなっている。日本というものは全く変わっていないのだろうな。

また面白かったのは、岡という天才数学者がいうには方程式が最初に浮かぶことは決してありません。方程式を立てておくと、頭がそのように動いて言葉が出ていくるのではありません。ところどころ文字を使うように方程式を使うだけです。というのは面白かった。物理でも結局そうなんだ。結局言葉があってそれを表現する方法として数学を使っているに過ぎないのかもしれない。

近代数学と情緒

ここは数学の話になっていて岡が多くを説明しているが数学のことはわからないでも岡がもっている数学者として数学のマップと歴史感みたいなものがあってそれを元に話しているような感じがある。数学は大きく分けて幾何学、代数学、解析学があって岡は解析学だと。解析学で主体になっているものは関数で、19世紀になって複素数というものがよくわかってきて急激に伸びだしたという。よくよく考えると今まで学んできたこともこういった数学の準備をたどってきたようなものなのでこういった大きな流れを知って勉強ができたならよかったのになと思うが、今からでも遅くないのかもしれない。。ちゃんと大きな流れで物理に向き合っているのだろうか?私は。。。

記憶がよみがえる

記憶について二人で語っているが難しかった。我々が記憶として持っている記憶以上に原始時代から原体験としてつないできた記憶があるのかもしれない。結局人はそこに立ち返ることになるのだろうか?

批評の極意

ここで小林がプラトンが好きだというところから話が始まって、小林が好きな理由は、大変簡単なことでして。あれ、哲学の専門書じゃないからです。専門用語なんてひとつもありません。定義を知らないものにはわからないという不便が無いからです。こちらが頭をハッキリと保って、あの人の言うなりになってれば、予備知識なしに、物事をとことんまで考えさせてくれるからです。

いままで食わず嫌いだったが読んでみようと思った。単純に。

そこから会話は日本人について人ある。神風について言及し、あれができる民族でなければ世界の滅亡を防ぎとめることはできないとまで思うのです。と岡が言う。現代人の日本人としてはちょっと危険な思想かなと思ってしまう。時代がちがうのだろうか?表面的には欧米人と日本人の考え方の違いが議論されてあってこの本のテーマでもある個人主義とか小我についてとらえ方違いが述べられているが今は彼らのような考え方をすると少し差別的な気もした。日本人として欧米人に比べて小我にこだわっていないかといわれたら正直難しい。日本人にしかできないアートや小説、音楽などそして日本人にしかわからないそれらというものがあるのだろうか?宗教観や哲学などこれまでも話も総合して我々日本人は何を見ていて原点に戻るそしたらどうなるのか?西洋的な考え方以前の我々日本人に固有な考え方などはどういったものだったのだろうか?今どう残っているのだろうか。じわじわと効いている。これはよくありがちな議論に行きつきがちだが考えてもみようと思う。物理の場合は日本人らしい研究っていうのはあるかもしれない。

素読教育の必要

素読というのは江戸時代の学習方法の一つらしいが、朝早く先生のもとに集まり意味の解釈を加えず文字を大きな声で読み上げるという。

現在で言うと輪講と音読の会みたいだろうか?ただ解釈はしないらしいから音読の会かな。昔は四書をやっていたみたいだが今は本が多すぎて何をやっていいのかもわからないが。今でも専門書でも全く関係のない読書会でも勉強会をする機会が減ってしまった。大学の先生だと教えながらこういったことを図らずともやっているのかもしれない。こうやってブログを書いているのは少しでも本から学ぶものをよりよく整理し自分の言葉に直すことによって脳に定着させたいという意味でやっているがやっている感じだと少しは意味があるのかもしれないと思う。学習できる環境というものは本当に大事だなとも思った。SNSやメタバースまである現代では少し形が異なるかもしれないがここに書いてることを参考に自分も学び続ける環境を作っていきたいと思う。

ここまでで本編は終わり。かなり考えさせられる本であった。こうやって書きながら読むことで少しは深く読めたがそれでもまたざっくりと読んでみたいという感覚もあるし、何度も深く掘り下げていきたいなと思っているところもある。正直僕の感覚だと小林秀雄が言っているところの方が難しく、岡潔が言っているところの方が理解できた気がする。理系なので仕方がないのかもしれないが小林が私にはまったく見えていないものが見えているのだろうと想像しておくことは大事なことだと思っていて。僕自身が行っている考え方で見えないこと想像できないことがあってもそれが存在しないという意味ではない。他の人が意味を見つけている可能性があるというのは常に意識として持っておきたいと思った。さてさてこれからもたくさん勉強していきたいと思わせてくれる本だった。。

本のレビュー9②【人間の建設】岡潔・小林秀雄

破壊だけの自然科学

この章では岡が特に現代物理学における数学者の立場からの批判について書いてある。特に相対性理論について数学的立場からの批判を行っている。僕の理解不足か勘違いであるかもしれないし1965年以前のことだからしれないが岡の批判は当てはまっていないと思う。岡は相対性理論が実験不可のものであるから、物理学が近似的に実験が可能な物理学公理体系から超越的な公理体系になってしまい、物理が知的に独立していないという。彼は現在の物理学は数学者が数学的に批判すれば、物理学ではない。なんと言いますか、哲学の一種ですか。という。

そこで自然科学は破壊の科学で建設は何もしていないという。現代にいたってはなかなかこれには同意できないが、批判されることに対しては感謝できていろいろなことが考えられる。数学者と物理学者はまだ話していないと言っているが現代でもそのような気がするが。。残念ながら。でもトポロジーとかは少し進んでいるのか。僕もすこし考えやネットワークを広げなければと思う。数学者、物理学者、化学者とか分野にわたって喧々諤々と議論するっていう場面は現代ではあまりないしそれはこの時代からすでに始まっていたのかもしれない。そう考えると自分の物理学の研究でも新しい見え方とか自分にしか出来なさそうなこと一生懸命数学者とコラボしてみるとか考えられるな。。少し頭にとどめておきたいところ。

岡がいう。大きな問題が決して見えないというのが人類の現状です。物理で言えば、物理学的公理が哲学的公理に変わったことも気づかない。

ここでの批判は現代でも起きていることでもある。最近気になって読んでいたのはLost in Mathという本ですこし前に読んだので内容は忘れてしまっていたが基本的には対称性にというものに取りつかれて標準モデルを構築している理論物理が実験結果をうまくとらえられていない。物理学の立場ならば実験結果があればそれに合うように理論を再構築しなければいけない。しかし自然には美しい対称性があるべきだと思い込み受け入れられないということが現代でも起こっている。自然は我々の視点とか美意識でみてあるべき姿でいるわけではない。しかしそうと思いこむんでしまう。自然は美しく対称的であると。いままでもそれで沢山のことが説明できてきたと。しかし、そしてそれを元に学理を構築しようという試みはすでに物理学ではなく哲学の一種であるという批判が当てはまってしまう。よく考えると物理学はこういった状況に何度も歴史上見舞われてきてそれでも進化してきたのかもしれない。物理学は実験と理論双方があって理論が実験をないがしろにせずに学問を構築していくからこそ物理的公理体系であるということか。やはり。

アインシュタインという人間

おそらく岡は物理学者が嫌いだ。自然科学が弊害が多いと思っている。おそらく岡も小林も物理学をわかっているとはこの本を読んでいるうえでは思えないが、一つの発見としてはこの時代でももう専門分野で分断は起きていることがあるように思う。正直、岡も小林も無明と知性の低下を批判しながらも自らここに落ちてっているのではないかとすら思う。この本のテーマと彼らの会話を聞きながらやはりいろいろなことを学んでおいて学問もある一程度の余裕を持ちながらやらないと逆に当たり前のことに気が付けないようになっていくのではないかと思った。ハイゼンベルグの原理にしてもあの時代、ハイゼンベルグをはじめとする理論物理学者とカント派哲学者の対決を見ていてもまだまだ物理学者の量子力学の哲学的解釈もできていなかったし哲学の量子力学の理解も進んでいなかったことをハイゼンベルグの部分と全体を読んで思っていたが、数学と物理はそれ以上の差があったのかもしれない。あの頃はまだそういう時代だったのかもしれないと岡と小林の話を聞いていて考えた。

美的感動において

この章は正直あまりわからなかった。詩と絵について話をしているが両方とも疎いせいか話が分からなかった。

ただ、岡が章の最初に書いていた、日本は、戦後個人主義を取り入れたのだが、個人主義というものは日本国憲法の前文で書かれているような甘いものではない。それに同調して教育まで間違ってしまっている。その結果、現状はひどいことになっている。それに気づいて直してもらいたい。

ここには本書の最初から続く個性というものがわかっていないという二人の考え方がここでも続いていることがわかる。いろいろなテーマでものすごい情報量で話しているが根柢の問題意識というものは一貫しているという気がする。

人間の生きかた

ここでは人間の生き方というところではあるが主に文学特にトルストイとドストエフスキー、日本人は本居宣長などについてはながら理論とか体系とかは欧米から学んだものでもともと日本人には首尾一貫して理論をこしらえるなんて考えがもともとないんだということを小林がいう。

小林が言う。僕らも不思議なことだが、振り返ってみますと、20代でこれはと思ったことは変えていませんね。それを一歩も出ないのです。ただそれを少し詳しくしているだけです。

うーむ。なるほど。わかる気がするがわかりたくない気もする。研究を進めていくうえで博士論文の時にやったことがとても後々に影響することと同じことか?あの20代の頃に考えていて疑問に思っていたことの延長上に生涯の研究のキャリアがあるのか?ここはこの言葉についてよくよく考えておこう。むしろそこから抜けられないのであればこれまでの研究をしっかり復習して再度研究の行く先を見るということも大事かもしれない。新しいことをどんどんやりたくなっても来るがそもそも何がしたかったかと見直してみようと思う。物理で何が楽しいと思っていたか?なんで研究しているか?自分の性格も含めて時々考えてみることは結局、専門性と個性を見つめ直すことになり、研究者として重要なことだと考えるようになってきた。

批評家である小林がトルストイとドストエフスキーが両方とも偉いし、それは数学者である岡がリーマンとポアンカレどちらが好きかと小林に論じたって仕方がないですよといっていてこういう感覚は大事だなと思った。とにかく学者としても作家としても素晴らしいものを生み出したことは素直に受け入れてどのような分野でももう少し感覚的に評価していいのじゃないかって思った。この本を読んでいることがまさにそうだが。学者としての態度をここら辺の二人の掛け合いから学んだ。

無明の達人

ここではトルストイとドストエフスキーの話の続きながら、無明がテーマになっている。無明を知らないとむしろ極めないと物が見えない。ドラマにならないという。面白かったのはその後の議論でピカソもスペイン人を理解しないとわからないなと小林が言ったところから、やはり日本人には結局日本的なものしかわからないのだと岡と小林は言う。日本人が知れるものはやはり我々に関するものかもしれない。そういった点で前の章の本居宣長の話を思い出し、日本人はそもそも理論と体系なんて気にしなくて自分たちの考えを発展させてきたものだし、理論とか体系というのは西洋文化から借りて学んできたんだなということにもつながった。

いずれにせよ。文学を読んでこういう風に議論できるのは楽しいと思うから、やはり本はたくさん読んでおきたいなと思う。旅行もたくさんしておきたい。いろんな疑似経験、実経験をしていくと楽しくなるのだと感じる。

一という概念。

ここでまた数学的哲学的な議論に戻っていく。小林が数学者における一という観念という形で話し出したところで流れが変わる。岡は一を仮定して、一というものは否定しない。一はあるのかないのかわからないというが哲学的には一という数学的観念はPrioriであるということだろう。つまり一という意味とかなぜあるかというものは理性ではわからない。

そのあと議論は2や3など順序数の話になり、そうやって一から増えていく。単細胞から20億年かかって進化した人間については何もまだわかっていないよねという話になってくる。天才が生まれるのは環境か遺伝かという話になるがここら辺は現在の方が知見は溜まっているだろう。しかしいつの時代でも重要な議論なのかもしれない。議論としてはシンプルだがそれを話すのに科学、宗教、哲学の知識にわたってさらっと議論できるのが情報の密度の高さを示している。

ここらへんで3分の2ほどで今回はここらへんで終えようとおもう。次回は残りの部分を読んで書いていくつもりである。

本のレビュー9①【人間の建設】岡潔・小林秀雄 

学問を楽しむ心

学問は難しいものだから面白い。そして学問は非常に難しいもので、どうしても難しいことをやりたいと願う人だけが学者の資格を取れると小林は言っている。むずかしければ難しいほど面白いというのは誰にでもわかることですよ、そういう教育をしなくてはならないと僕は思うと小林は続ける。

この最初の導入で彼ら二人の会話を読みながら、30歳くらいの時に友人と話をしたことを思い出した。彼とは朝までお酒を飲みながらだったが喧々諤々と議論したことを覚えていて、彼は私の主張が全く受け入れられず、頑なに頭を縦に振らないことに納得がいかないようであった。おそらくそれを機に嫌われてしまったのではないかと思っているが、おそらく彼は今でも私を分からず屋だと思っていることだろうと思う。彼が言うには私は人にもっと学問を教えろということを言っていた。30歳イケイケだった私はそんな場合じゃない、自分が追及する学問をやることで精いっぱいであり、そんな余裕はみじんもない。そもそも教えてほしいっていう人に学問を教えることはできないという考え方だったからだ。どこかに学問をする資格なんてものがあるわけでもない、学問をするというのは意思と姿勢だけである。教えるなんてとんでもないと少し丸くなったが今でもそう思うことが多々ある。だから大学まで来て勉強教えてほしいというのは違うのよと言いたい。大学には環境がいくらでも整っているから好きなだけやりなさいよ。しかしこれは自分が無明であったんだと本書を読んで思い起こした。しかしながら、日本が貧しくなってきて変化が速い時代になりより成果が求められる時代ではそういう余裕も無くなってきたのかもしれない。。

しかし読み進めていくと彼らが持っている問題意識と私が今現在持っていることが全く一緒だったことがだんだんわかってくるのだが、これには素直に驚いた。なんと本書は1965年位に出ているものだからだ、まさに現代で起きていることではないか?この本を読んで自分の学者としての立ち位置が明確になったと思う。

無明ということ

人は自己中心に知情意し、感覚し、行為する。その自己中心的な広い意味の行為をしようとする本能を無明というと岡が話している。また人は無明を押さえさえすれば、やっていることが面白くなってくるということができると。

岡はいう。それほど私はピカソを高く評価しておりません。ああいう人がいてくれたら、無明のあることがよくわかって、倫理的効果があるから有意義だとしか思っていません。ピカソ自身は、無明を美だと思い違いして書いているのだろうと思われます。(中略)自我が強くなければ個性は出ない。個性の働きを持たなければ芸術品はつくれない、と考えていろいろやっていることは、いま日本も世界もそうです。良い絵がだんだん描けなくなっている原因の一つだと思います。

国を象徴する酒

ここでは小林が日本酒がうまくなくなった。酒に個性がなくなったという。僕らが若いころにがぶがぶ飲んでいた酒とはまるっきり違うのですよ。樽がなくなったでしょう。みんな瓶になりましたね。樽の香というものがありました。

ここでは岡が個性を重んずるということがどういうことか知らないのですねと。おもに小林が日本酒も小説も絵と同じでダメになっているという。世界の知力が低下しているとも。個性を競わせて、物を生かすということを忘れて、自分が作り出そうという方だけをやりだしたという。

ここらへんの文章はロジック的には世界のものが良くなくなってきた、知性の低下、個性、無明という問題意識について話している。

数学も個性を失う。

ここでは話が個性についてより深堀していくように議論が進んでいく。岡が言う。それがいわゆる個性いうもので全く似たところがない。そういういろいろな個性に共感が持てるというのは不思議ですが、そうなっていると思います。個性的なものを出してくればくるほど、共感が持ちやすいのです。

また以下の部分も面白い。小林が聞く。数学のいろいろな式の世界や数の世界を言葉に直すことはどうしてできないのでしょう。岡は、研究している途中のものは、言葉では言えませんが、出来上がってしまえば言葉で言えるのです。だから、できるだけ言葉で言い表して発表している。

この点にはかなり納得がいった。問題がわかったと思い論文にしてしまったことは言葉にできる。これば物理学でも同じようなことかな。論文にしたら自分が一から問題提起してすべて解いた問題なので専門家にも一般の人にもどのレベルに合わせても言葉に言い表すことができる状態になる。さらにその物理の歴史上の重要性、立ち位置などもわかる。

ここまででは個性や知力低下が問題意識としてあることが二人の会話でわかってくる。数学の体系を教えることが大変になってきていることをいう。これは今でも当てはまるのがおもしろい。物理でも過去10年の深化と進化といものはものすごくとても大学院で教えられるものではない。本では1930年以後の30年間の論文を大学院では読ませることはできないと言っているが、今では3年間の論文でも難しいだろう。まあそこは本質ではない。文脈で言うと本質は次の岡の言葉でこれが現代人にも刺さる。

世界の知力が低下すると暗黒時代になる。暗黒時代なると、物の良さがわからなくなる。真善美を問題にしようとしてもできないから、すぐに実社会に結びつけて考える。それしかできないから、それをするようになる。それが功利主義だと思います。西洋の歴史だって、ローマ時代は明らかな暗黒時代であって、あの時の思想は功利主義だったと思います。人は政治を重んじ、軍事を重んじ、土木工事を求める。そういうものしか認めない。現代もそういう時代になってきています。

科学的知性の限界

小林はいう。バッハの世界はこうであろうとか、言葉で表しますよね。最後には言葉にするわけです。岡はいう。文章を書くことなしに、思索を進めることはできません。書くから自分にもわかる。自分にさえわかればよいということで書きますが、やはり文章を書いているわけです。言葉で言い表すことなしには、人は長く思索できないのではないかと思います。

ここでは長くなっていて引用しないが、岡が自然が本当にあるかどうかわからない。自然があることを証明することは現在理性の世界といわれている範疇ではできない。ということ言う。数学は知性の世界のだけに存在していると考えてきたが、数学は知性の世界だけには存在しえないということが人は4000年かけてはじめてわかったという。実際に考えてみれば矛盾がないというのは感情の満足であるという。カント哲学で言っていることと似ているように思えるが岡は違うルートで似たような考えを導き出しているように思えた。

しかし驚いたのはそのあと岡と小林との対話は続き。小林はこうまとめる。わかりました。そうすると、岡さんの数学の世界というのは感情が土台の数学ですね。岡は答える。そうなんです。

人間と人生への無知

ここでもやはり世界の知性が下がっているとしか思えないと岡と小林は言う。数学の論文を読んでも音楽を聴いても、小説を読んでもそう結論するしか仕方ないという。

その後、ベルグソンとアインシュタインの衝突。感情を元にした科学の議論、アインシュタインが相対性理論を発表して原子爆弾が広島まで落ちるまでわずか25年しかかかっていないこと。それから時間とは何かという議論についてどういう風にかんがえるかなど。そしてキリスト教への議論そしてデカルトの哲学にわたって議論していく。

まだまだ三分の一くらいだが。今回はここらへんで終わろうと思う。読んでいて思うのは二人の思考がかなり深いながらも情報量の密度が高いということ。なかなか丁寧に読まないと僕の場合は言わんとしていることがわからなかった。

まずは学問とはどういうものか?という議論から始まり、非常に難しい学問だがどうしても難しいことをやりたいという人がやる。また学問をやるということは無明であるということ。つまり自己中心に知情意し、自己中心的な行為だということを話しているが、無明を抑えれば学問は楽しくなるという。そこから個性の話になり個性はあればあるほど共感が得られるということについて話していて個性とはどういうものだったか考えさせられるようになっている。数学という自然科学の学問をするうえで最後は言葉にしなくてはいけないということが直感とは少し違った。なるほどと今は思っているが正直まだ腑に落ちてはいない。科学知性の限界ではカント哲学の純粋理性批判のようにかっちりとした理論化はされていないが深い哲学が提示されていた。知情意にはかなりのヒントがあるように感じる。

ここまでで二人の問題意識は僕が理解したところでは世界の知性が低下しているということ。数学という自然科学のど真ん中の学問ですら知性だけの問題ではないのだが、現代人にはそれすら見えず、個性がなくなり、余裕がなくなり、実利にしか興味がなくなる功利主義がはこびっている。学問をする余裕や力がなくなっていて暗黒時代に向かっているということを述べられていると思う。まさに理性、感性、知性がなくなるからものが考えられない。

コロナにしても経済にしても政治にしても考える力がなく余裕が全くないので功利主義が蔓延る。なにやら今の時代のことを議論しているような気がするのだが。。。65年経って。今は暗黒時代であるということがハッキリとわかった。

岩波文庫読書録①【読書について他二篇】ショウペンハウエル&斎藤忍随

岩波文庫については大学院博士課程の頃に公益財団法人風樹会から給付型の奨学金を頂いていた。風樹会は岩波書店の創業者である岩波茂雄(1881年~1946年)が創設されたものであることは存じ上げていたが学生の頃には正直あまり思いをはせることはなかった。しかしいつかは恩返しをしたいと考えていた。ここでは岩波文庫をオーストラリアからオンラインで新たに購入し、レビューして少しでも古典を学びなおしながら要約やレビューを書いていこう。幾ばくかの人が岩波書店の本を取っていただければ幸いだ。

  1. 思索

私がこの本を最初に手に取ったのはいつかは覚えていないがおそらく大学院だったころのことだろうと思う。ここに書いてある問題意識は無意識のうちに覚えて日々を過ごしていたように思う。短い文章の中にも勉強になることがたくさんで再度読んだ今でも勉強になることが豊富にある。今回は本書の中から気になったものを引用しながらブログを書いていこうと思う。引用したところは太字で示す。

数量がいかに豊かでも、整理がついていなければ蔵書の効用はおぼつかなく、数量は乏しくても整理の完璧な蔵書であれば優れた効果を収めるが、知識も場合も事情は全く同様である。

まさにそうで私はたくさん本を読んできたがあまり身になっている気がしない。最近はやはりきちんと丁寧に読んで教えながらまとめていくことできちんと体系的な知識として身に着けたいと思う日々だ。

ところで読書と学習の二つならば実際誰でも思うままに取り掛かれるが、思索となるとそうはいかないのが普通である。

なるほどと思う。私の場合は読書と学習は勉強で、思索は研究だととらえているが。読書によって考えることを手伝ってもらっているか自ら思索しているかはなかなかわかりづらいが意識したいところだと思う。少し考えてみたが思索は私らの場合は試作ともとらえてよいのではないかと思った。今まで学習したことから考えさせてもらったことを通して新しく科学を生み出す作業。実際にこれまでにない実験し出てきたデータを解析しながら考えることにより新しい知識を試作していく。これまで学んだことも含めて新しいデータをどう理解するかを総合して思索しているものだと思う。思索をすることは簡単ではないということは常に問題意識として置いている。

誰でも次のような悔いに悩まされたことがあるかもしれない。(中略)けれども自分の施策で獲得した真理であれば、その価値は書中の真理に百倍も勝る。

まさにこれは一つの論文を完成させた時に感じることである。論文を書くのは大変だが論文を公表する過程を終えて一つの論文を完成させた時、論文の中には一つの私自身が発見した知識というものが完成した形で収められている。これを絞り出すという作業によって得られた真実は本で学ぶどんなことよりも重要である。これは著者が本を書くことも同じなのかもしれない。

読書は言ってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである。

これはなるほどなと思っている。研究者から立場したら全く納得できることだ。他人の論文を読んでいるときは研究の時間ではなく勉強している時間である。他人の発見した真実を目的や手法や知的アプローチ、実験的アプローチも含めて勉強させてもらっているが自分がみずから知識を生み出す場合は実際に自分で考えて自分で行動して知識を生み出していくほかない。

読書で生涯を過ごし、様々な本から知恵をくみ取った人は、旅行案内書を幾冊も読んで、ある土地に精通した人のようなものである。

なるほど。やはり勉強も大事だが実際に行ってみたりして体験・経験することが大事だと思う。一方で本などで読んでおくことで刺激される知的探求心などもあるから両方大事だと思う。

第一級の精神にふさわしい特徴は、その判断がすべて他人の世話にならずに直接自分が下したものであるということである。

これに関しては思うことがある。私は第一級でないことは明らかで本を読むことで学ぶことがたくさんあり研究に役立てている。私が出会った中で第一級だと思う研究者がいる。彼は教科書で学ぶことがなかったという。これには驚きだったがもっと驚いたのは彼との議論である。頭の回転が速い天才というだけでなく、彼は原理原則に基づいて公式を何もないところから書き出せる。これには驚いた。本書に書いてある第一級の精神に近いレベルなのではないか。

ここには引用はしないが、思索の14のところで真に価値があるのが一人の思想家が第一に自分のために思索した思想だけであると言っている。もう一つのタイプの思想家はソフィストで彼らは世間から思想家だと思われることを念願し、かくして世人から得ようと望むもの、つまり名声の中に幸福を求める。これら人間や学問の習熟度によると思われるが意識はしておきたい視点だと思う。

2.著作と文体

まず第一に著作家には二つのタイプがある。事柄そのもののために書くものと、書くために書くものである。第一のタイプに入る人々は思想を所有し、経験を積んでいて、それを伝達する価値のあるものと考えている。第二のタイプに入る人々は金銭を必要とし、要するに金銭のために書く。彼らは書くために考える。

頑張って第一のタイプに憧れて頑張っているけど第二の気持ちもわかるのが辛いところ。論文は書くべきものを書きたいのだけれでもすごく良い実験結果だったり実験が凄くうまく行くこともまれなのでその場合は書く力で頑張らなくてはならない。

そこで、この不正直な空気を一掃するために何よりも重要なのは、無頼漢的文筆業界が挙げてよりどころにする楯、すなわち匿名という方法を廃止することであろう

上の文章に始まる数ページは現在のインターネット特に日本で時々議論されているYoutuberや有名人に対する誹謗中傷などの問題に対して大変示唆があった。確かに匿名性があることによって無責任な発言が出てくることもあるが、一方で匿名であるからこそ本音も出てくるものもある。著者の主張はわからなくもない。日本のネット文化は違う方向に行っているようだ。僕も少なくも雑誌などや新聞などは著者は明らかにしてほしいと思うことがある。よい文章や有益な文章を書く人は覚えておきたいし、明らかなマナー違反をしているような文章の場合、だれが書いたものなのか気になる。

そこで、すぐれた文体たるための第一の規則は、主張すべきものを所有することである。あるいはこの規則は第一規則どころではなく、第二第三をほとんど必要としないほどの、十分な規則といってよい。

まことに仰る通り。たくさんの読書や論文のからの情報も重要だけれど、実験や解析などを通じて少しづつでも知見というものをためて、書くべきというものができたときに書きたい。論文はこれは世の中のために書いてべきと思って書いている状態が理想で毎日悩みながらでもこの書くべきことを研究を通して見つけて、そして実際に書くべきことを書いていくという研究生活を送っていきたい。

これに反して精神を備えた人々の作品をひらくと、著者たちは真実の言葉で我々に語り掛けてくる。だからこそ、彼らは我々を鼓舞し、我々を養うことができるのである。

ここまでわかっているかはわからないが本は一冊でもはまれば人生を変える力があると思う。真実の言葉で書かれている本は見つけていきたいとは思うが。書く方としては自分が徹底的に考えて、伝えるべき内容をなるべく読者に届くように頑張って書きたいと思っている。妥協しないで頑張っていきたい。

表現曖昧、辞句不明瞭ということは、いついかなる場合でも、非常に困った兆候である。

無意味なものを書き添えるくらいなら、良い部分でも切り捨てるほうがはるかにましである

理想はわかるがなかなか自分でやるのは難しいと感じている。なのでこういった言葉に出会うたびに自分が今書いている文章ではどうするか?と問い続けることをしたい。英語のライティングのテキストではよく形容詞、形容動詞は大抵の場合いらない。なるべく簡潔にかけと書いてあるが。同じ意味ではより簡潔に短くわかりやすく書きロジックがわかりやすくなるように書きたい。気持ちはどんどん書き足していきたくなるのだが押さえながら。。読者に良く届くように心がけていく。もうすでに長いが笑。

3.読書について

富者に対する非難は、これに尽きない。富と暇の活用を怠り、富と暇に最大の価値を与える生活に意を用いなかった点をさらに咎めるべきである。

これは現代においても示唆に富むコメントである。特に格差社会が話題になっている今だからこそ。私自身はありがたいことに最近になって余裕ができてた。仕事も慣れてきて時間に余裕が出てきた。しかし余ったお金と時間を有用に使えるかというとなかなか難しい課題である。最近研究グラントを評価していてよい科学者はきちんとお金を調達してお金を使って社会を豊かにしているなと感じた。常に今あるものを社会に還元して使っていけるように常に考えながら過ごしていきたいものである。

読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるに過ぎない。(中略)ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、次第に自分でものを考える力を失っていく

なるほど。私自身は本や論文をよく読むほうだが、それらは刺激のようなものだと思っている。それにより世界が広がったり忘れていた重要なことを思い出させてくれる。ただし研究者や一人の人間として豊かな生活をするからそれからいかに学びそれを使っていくかどうかである。自分で行動して知識を使いながらその行動の結果を観測するなかで我々は考える。なので常に行動すること、いかに知識を使うかを意識しながら人生生きていきたい。

良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである。

40才を手前にしてやっとこのことを認識してきたかな。体力や健康の問題もあるし、良い仕事には時間がかかる。良書をなるべく読んで、良い研究を書き残していきたいのものだ。古典は重要なようにここで書かれているがそう思うときもあれば良書を新刊でみるときもある。あまり構えずすべての本は読めないのだから出会った本の中から引き出すものを引き出していきたいと考えている。

書物を買い求めるのは結構なことであろう。ただしついでにそれを読む時間も、買い求めることができればである。しかし多くの場合、我々は書物の購入とその内容の獲得とを混同している。

これはそう。私はたくさん本を買ってきたが最近は読み終わってからでないと買わないようにした。そうしたらあまり読めないことがわかってきたし本にはそこまでお金は使いたくても使えない。本当に消化したと思われる本も少なくていつかはきちんと読まなくてはと思っている本もたくさんある一方、新しい本はたくさん出てくる。ここにブログを書いてまとめていこうとしているのも本を本当に理解するということはまとめて人に説明できるようにしてからと思っているのでこうやって書くことで少しはましになるのではないかと願っている。

哲学の正規の軌道を延長したのは最近ではカントであるが、

私はカントの純粋理性批判が好きなでやはり読み直して理解しておきたいなと思った次第だ。

ここらへんで読書については終わろうかなとおもう。まとめると人生は短いので良書を正しく理解して多読はせず思索をしろ、そこからきちんと書くべきものを持ち、そのうえで良く書き、そのうえで文体ができれば言うことなし。。

本のレビュー8【一生モノの英語力を身につけるたった一つの方法】澤井康祐著

私は29歳まで日本で過ごした純ジャパである。それからアメリカに2年3カ月そして今はオーストラリアに来て7年2カ月が過ぎてしまった。英語に関してはマンネリ化を感じていて日常生活で困るというか困っても無視するメンタルができてしまったがために向上心を忘れてしまったかのようだ。アメリカにいたときはものすごく努力していたがオーストラリアに来て努力を怠るようになってきた。むしろ特に給与が上がるわけでもない英語学習に時間を割くのは効率が悪いようにも思えてきていた。私は科学者であるから英語で論文を書くことが大事だし常に論文を読んでいて、またいろんな文章を英語で書いているが成長している気が全くしていなかった。数年前まで英語で本を読むのが好きで英語の本をたくさん読んでいたが私の最終目標である本を楽しみたいというレベルまで来たように錯覚してしまった時期もあり、あるとき難しい本に当たると読むのをやめてしまうなどということが起こった。何が起きたかは心理的には明らかで早く読みたい気が勝ってしまっているのだ。はやく情報を得たいという気持ちである。たくさん読まなければという気持ちもあった。ここで気を取り直そう。ゆっくり正しく読む。そして正攻法で英語力をきちんとつけて長い目で英語をきちんと物にしたいと思い直してところでこの本に出会った。

本書の前半では井筒俊彦、西脇順三郎などの語学の天才とされた人々を紹介し彼らが語学学習者としての最高地点というものを示しながら、ある一定上の語学力に達するためにはまずは膨大な文法理論の習得を目指すべきと説く。天才たちの知的探求心のレベルの高さにおののきながらも著者の言わんとしていることは勉強は平凡で地道なものを徹底的に重ねているにすぎないということと理解した。前半からところどころで参考書の文献は紹介されており、結局受験勉強が大変役に立つのだということを示されている。結局そこに行きつくのかと思うと後悔また自責してしまい落ち込んでしまう一方、やれることは地道にやるだけという覚悟もできる。なので自分自身は文法の勉強と精読にこれから力を割こうと決意した。一方で英語の本を読み続けるのはやっていきたい。毎朝研究を始める前に必ず30分の教科書を読んでいるが真面目に読むと1-2ページしか読めず一年で一冊しか読めないことになる。物理学の場合は英語が読めないのか数式や論理が理解できないのか微妙なところもあるが、気の遠くなる作業であきらめたくなるがこれしか道はないのだなと最近覚悟を決めた。著者の言うようにとにかく英語学習においてはどこかの段階で覚悟を決めて、緻密に分類された文法知識を大量に身につけなければ、普通の人は高みに達することができないのだという。今まで逃げてきた自分が情けない。大量に読んで聞けばなんとかなると思っていたが、これからはきちんと勉強します。

その後、読むことに話が移っていく。文法の基礎力を固めたら読解演習だと説いている。読む、聴く、書く、話すの四つの技能のうち、読むがすべての基本だからだ。読めるからこそ、聴けて、書けて、話せるのだから。前半でも文学の理解が語学習得の最終地点であることは間違いないと言っている。またそこに行きつくまでは地道な語学的鍛錬が必要なのだとも。高い読解力は聴く、書く、を高いレベルで行うための前提の力であると言ものでなく、現代においてはこれまで以上に不可欠なものになっているという。

これは我々物理学者でも同じで現在では簡単に論文がアクセスできるようになってきているし研究者の数も過去よりも多い。まずは論文を検索して今まで研究がされていないかどうか調べることもある。また最近の論文の参考文献は以前よりも多いと感じる。研究者も論文をこれまでよりもたくさん読んでいる。しかし高い読解力は物理を理解する力と英語を理解する力両方があり、物理の論文ではもしろ物理の理解の方が大きいように感じるが、常に思うことはきちんと読解する重要だということ。物理のような科学の場合、きちんと物理を理解したら必ず疑問や次への研究のアイデアが生まれてくる。さらに著者の意図や研究の方向性なども見えてくると研究が楽しくなってくる。一方で論文を読むのは仕事ではない。論文を読むのは仕事の準備段階だ。論文を読むのは過去の研究を知る勉強で、それから先に進む研究ではない。しかしながら、過去に積み上げられた研究はたくさんあるしそれを理解しなければどういう研究をするかというスタート地点にも立てない。なので大量に読まなくてはいけない。限られた研究の時間では論文を丁寧にゆっくり読む時間を取れないような焦りが出てくる。私はここにきてやはり急がば回れで論文をしっかり丁寧に読むということをやり直したい。そしてより良い論文を書きたいと思いながらたくさんの論文を読んでその読解の質をあげていく努力を続けて行きたい。

その次には語彙力。余り特筆してここに書きたいことはないが語彙力は自分なりには結構発音と一緒に数年頑張ったが僕個人的には熟語が弱い気がしている。熟語が問題なのは意味が分からない場合全く意味が予想できないから覚えるしかない。著者が推薦していたいくつかの本を読み直して覚え直そうと思う。単語耳で8000語を何百回も発音続けていたのは30歳前後であの時には単語しか覚えていない。単語は文章が読めなくなるほどわからないことはほとんどないが熟語実際に出てきて意味が分からないこともあるので復習をしておこうと思う。

その後は音読と筆写を行うことによって英語のセンスを鍛えることを鍛えられることが書いてある。音読は環境の関係であまりしなくなったが前はかなりした気がする。筆写が良いというのは今まで考えたことがなかったのでコツコツと良い英文を見つけてやっていこうかと思う。ここは自分自身は英語で読んだ本を英語でレビューするということをしようと思う。今まで一冊読んだらレビューしていたがこれを章ごとにすることによって本の理解と筆写を兼ねられるかもしれない。何度もやれということだが発音と同じで英文をきちんと身に沁み込ませるという作業なのだろう。

その後私が興味を持ったのは第八章のネイティブスピーカーの限界と底力というところ。たぶん自分自身は本書で書かれているこのレベルなのだと少なくとも自分では思いたい。論文を書いて初稿の時点でネイティブにRead wellといわれたので意味は通じているみたい。ただし逆に日本人にネイティブに見てもらいましたか?って聞かれるので文法の間違えが目立つのだろう。ネイティブの上司を持ったことがあるが意外とネイティブに文法を直されるどころか僕ですらネイティブが間違っているのではないかと思ったところが幾度もあった。なんとこれが相手は雑誌のエディターレベルなのだ。なのでネイティブでも本気で読まなければ論文の修正は容易ではない。ただネイティブの底力といえば私の同僚で最も英語力があると思っているネイティブは同じ文字数で論文の内容を変えずに全体を書き換えられるほどの英語力がある。これを聞いたときにはさすがにこれは無理と思って、これからは彼に論文を見てもらいたいと常々思っていて、コツコツと自分の論文を書いていこうと思っている。アメリカにいたときの上司は英語ネイティブではないが相当の語学力の持ち主で彼女の論文は通りやすいのだ。物理で英語の論文を書いた場合はやはり物理で面白いっていう論文を書いて、ネイティブの人もこの物理は面白い何とか論文が通るようによい英語にしてあげたいって思わせなければきちんと読んでもらえないのだと思う。なので本職の物理でよい研究をする、そしてなるべく早く見てもらえる原稿を仕上げてたくさんいろんな人に見てもらう、そしてたくさん書くしか道はないのだろう。

第九章で英語に吞まれないためにという章がある。ここも面白くて英語推進派と反対派の対立があって両方論理は通っていることを説明している。なるほどなと思う。私は少し反対派の傾向があったがこれからはフラット寄りになっていくと思う。結局、英語ができる人は日本語もできるロジックの問題だというのは面白かったし。私に置き換えると良い物理かな。きちんと良い物理を確立できれば面白いことを書けると思う。結局は論理的構成力の差である。自分自身の場合も自分が組み立てた物理の成果がハッキリとしていれば書きやすい。この章では語学の天才の母語に回帰したことも書いてあり、レベルは違えども40手前にしてまた母国語で古典などを読み直している私には妙に納得できた。結局英語に呑みこまれないためには緻密に文法理論を学び、そのうえで理詰めで英文を読解し、同じような姿勢で英作文に取り組むということだ。ああ、今まで怠けていた自分が情けない。論文もなんとなくたくさんの論文を読んでなんとなく苦しみながらやっと原稿を仕上げていたがそれぞれ自分が書いているものに文法的な解釈をしながら書いたことないなと。それは文法に対する感度があがっていないことを示していてやはり文法を勉強して英語に戻ると感度があがっているからいろいろなことに気が付いたりする。やはり文法をたくさん勉強してきちんと読解して論文書いていきましょう。英訳と日本語訳についても書いてあってこれについては真面目に良い英文を見つけたら日本語に、良い日本語を見つけたら英文にしていこうと思う。それはこのブログに上げていくのも良いかもしれない。

最後にたくさんの参考文献があり、これは大変参考になった。英語でも語彙力や文法の勉強もしている。論文でも自分の文体を作るまでには程遠いがモチベーションはあがってこれからも楽しみながら頑張っていきたいと思えるようになった。これからも正攻法でコツコツ勉強しながら書き続けていこうと思う。

本のレビュー7①【決算書ナゾトキトレーニング】村上茂久著

著者は大学・大学院卒業後バンカーとして働きながら経済と金融の読書会などを多数行ってきた方である。現在はコンサルタント会社でCFOをしながら今年には財務コンサルティング会社を創業された方で『理論と実務の架け橋』を人生のコンセプトとして活動されている。

私自身は物理学者で株式投資(オーストラリア株中心)をするために決算書を読み始めて少しづつ理解を深めていこうとしている。我々のような会計を理論も実務も勉強したことない素人からすると実際にどこから勉強していいのかわからず決算書を見ながら少しづつわからないことを埋めるように勉強していくしかない。こういった本は本当に助かり今回も大変勉強になった。

本書では7章に分けて話題になっている企業について解説している。なかなかニュースを見ていてもわかっているつもりになっているもしくは実際に企業分析をして何が起きているかまでは追ったりすることはしていないと思う。

著者は今の時代に決算書を本質的に読めるようになるには①生きた決算書を元に②多様な視点から会計とファイナンスの知識を用いて③複雑なビジネスモデルを理解することが肝要だと説く。ここではそれぞれの章で学んだことをまとめていきたいと思う。

第一章では『メルカリ』という題材を元に赤字でも絶好調であるを示す。

損益計算書(P/L)や貸借対照表(B/S)だけでなくキャッシュフロー(CF)計算書(C/S)を見ることの重要性を説いている。見るべきCFは三つあり、営業CFは本業の活動により稼いだもの、投資CFは設備投資や資産の売却によるもの、財務CFは資金調達や返済によるものである。著者は特に営業CFに注目せよと説く。これは営業活動から得られるキャッシュフローで簡単に言うと本業を通じてどれだけキャッシュが生まれたかを示している。

もう一つはネットデット=有利子負債ーキャッシュを財務体質を見る指標にしようということ。ネットデットがマイナスというのは実質無借金経営ということ。メルカリはネットデットは黒字になっている。

物理学者として参考になったのは育てる事業を見極めるPPMというところ。市場成長率と相対市場シェアで2×2のマトリックスを作り花形(Star)、金の成る木(Cash Cow)、問題児(Problem Child)、負け犬(Dog)とありそれぞれの事業から生まれるキャッシュフローを金の成る木から問題児へと再配分し問題児をできるだけ花形に成長させることを理想としている。一方負け犬への投資はできるだけ減らして、なるべく撤退することが望ましいとある。

私は物理学者だがこの研究成果を生み出すうえで無意識であるがこういうことを目指していた気がする。例えば私は今の管理している装置は花形や金の成る木から生み出せていてその成果が出ているからこそ未知の科学や技術(問題児)に研究資本を投入できる。未知の科学や技術はいまだにどう使われかも想像もできないため、周りからは需要が無いからやっても無駄とか、何やら誰も使わない難しい科学や技術に挑戦しているなどの批判(特に同じ科学者から)がされがちだが一度手法を確立してしまえば新たな市場(物理学の新分野)を開拓できる可能性がある。花形や金の成る木ができた後あとさらに新しい技術に挑戦するのは疑問にもたれたり、理解できる人がいないため正当な批判も得られないこともあり、政治的にはかなり難しい立場に置かれる。批判はつらいところだが、花形や金の成る木などで成果を挙げているからこそ、批判があっても進むことを黙認されるところだ。一方で負け犬への投資を下げることは政治的にはさらにもう少し難易度が高いかもしれない。装置の建設などに先行投資した場合既存の研究が負け犬でも何としても回収したいという政治的な思惑から負け犬でもとにかく装置を使えというプレッシャーがかかる。ここは難しいところだ。なぜなら研究の場合はやってみないとわからないことがあるし、その研究に対する私の判断が間違う可能性も多くある。なので一度は少なくとも負け犬と現在評価されている研究でもやってみる。どれが当たるのかわからないのだから。でも負け犬の難しいところは負け犬の理由があるということだ。大抵かなり高難易度の実験力と解析力が求められ研究資本を大きく投入しながら成果にならない苦悩の種になったりする、またなっても市場が大きくないため注目されないということもある。残念だが。一方でこれまでは負け犬として一昔前に科学者があきらてしまった課題が教科書や論文の片隅にあって忘れられていたりもする。当時では解決できなかった問題が数十年たって最新の理論や実験技術によって再度解決できうる問題になったりする。科学に対してはこれからも私なりの挑戦を続けて行きたい。

第二章ではほとんどのプロでも分析できなかった『ソフトバンクグループ』という巨大な企業群の決算書を読み解く

おそらくソフトバンクのことは日本人の誰しもが興味を持っていたとしても自分で分析して理解している人はほとんどいないだろう。ほとんどのプロでも孫さんの質問に答えられなかったというのだから。仕方ないので多くの素人やメディアはソフトバンクの決算が出たときには孫さんのプレゼンテーションをみてわかった気になったりしているのではないか?本書の解説にも出てくるようにとにかく関連企業が多すぎて素人では分析する時間なんて全く取れない。ソフトバンクグループは1400社ほどの子会社、500社ほどの関連会社の株式を所有している。

それらは以下の①連結子会社②持分法適用会社③ソフトバンクビジョンファンド(SVF)に分けることができるがこれら関連会社は ①ではソフトバンクKKやZホールディングス、②ではアリババ、③ではUber,Grab,Weworkなどがある。これらが本体のP/LとB/Sにどう連結されるか整理すると

連結P/Lに計上されるかどうか?①連結子会社 ②持分法適用会社 ③SVF
売上高
投資損益
当期純利益
連結P/Lに計上されるかどうか?
連結B/Sにどう計上されるか?

③SVFに関してはFVTPLといって金融資産の時価と簿価の差額を損益に反映させるという会計処理が行われるというので素人には全くノーアイデア。著者の説明を受け入れるだけだ。でもわかったことは、①連結子会社は簿価で計算される一方③SVF出資会社は時価が反映されると説明されている。また②の持分法適応会社は持ち分に応じて利益の一部がソフトバンクに計上される。例えばアリババは持分法適用会社であるから、持ち分に応じて利益の一部がソフトバンクに計上されるが株価は変動してもソフトバンクGの利益に直接は影響を与えないが、UberはSVFの出資先だから株価が変わることで時価が変わりそれに応じて ソフトバンクGの 利益が変動する。

したがってこれらの整理をするとどのセグメントがソフトバンクの当期純利益に寄与しているのかわかるようになる。セグメント別の利益はSVFがおよそ4兆円で71%、ソフトバンク事業が約8500億円で15%そしてSVF投資先の株式売却による実現損益が約7600億で13%ほど他は1%ほどしかない。ここからわかることはソフトバンクの利益の多くは含み益だったということ。ソフトバンクに投資をするかどうかはここらへんの構造を理解したうえでSVFが所有しているスタートアップ群が今後も時価を成長させ続けていくかどうかを信じられるかどうかというところか?リスクはかなり大きそうだがソフトバンクを所有することによりこれらのスタートアップ群が成長していくことを見守ることができる権利の一部としてとらえるならばSBGに投資をする価値もあると思える。

第三章では『Slack』という300億円赤字企業が3兆円で買収されたナゾを解く

Slack社はセールスフォースに約3兆円で買収されたが買収された時点では約300億円の赤字。どういう意図でセールスフォースはSlackを買収したのだろうか。ここで見るのは会社の値段である。ここでは純資産に着目する。これには二つの見方がある。

①純資産の簿価=過去における企業活動の蓄積=会計上の評価

②純資産の時価=未来を見据えたマーケットからの評価=ファイナンス上の評価

まず① 純資産の簿価 に関して図にすると簡単で

今回セールスフォースは純資産8.5億ドルのSlackを277億ドルで買収しようとしている。ということは純資産の(277/8.5)=約33倍で買収しようとしている。これはまさにPBR(株価÷一株当たりの純資産)と同じ考え方。PBR=1の場合は純資産の簿価と時価が同じ状態。PBR>1の場合は株主にとっては会計上の純資産の簿価よりも多くの価値を持っている状態でPBR<1の場合はその逆。ここでもセールスフォースによるSlackの評価が高すぎないか?と思えてくる。そこでPER(株価÷一株当たりの当期純利益)的な評価をしようとするがSlack社はまだ赤字。そこでPSR(株価÷一株当たりの売上高)を使う。計算をするとPSRでも33倍。まとめは本書の図表3-4が大変わかりやすい。つまり純資産から考えても今の売り上げから考えても33倍ほど高くセールスフォースはSlackを評価しているということになる。ここまでは①の考え方で過去つまりこれまでの成績、会計上の視点からの評価である。

では未来志向のファイナンス的にはどう考えるか?ここでSlackのP/Lを細かく見てみると開発費と広告宣伝費にお金を使うことで成長をしようとしているのがわかってくる。なぜこの宣伝広告費が高くてそれでも成長をしていく可能性があるのかがわかるように著者は説明を加えていく。ここでSaaSビジネスで理解する5つの指標が説明されている

指標日本語説明
CAC =Customer Acquition Cost顧客獲得コスト一人もしくは一社あたりの顧客獲得に要する費用
MRR = Monthy Recurring Revenue月次経常収益サブスクリプション等の経常的に計上される売上高や収入
LTV = Life Time Value顧客生涯価値一人もしくは一社あたりの顧客から生涯にわたって獲得できる収入
Churn rate 解約率すべてユーザーのうち、解約したユーザーの割合
NDR = Net Dollar Retention Rate売り上げ継続率一年前に獲得した既存顧客の売上高をどれだけ維持できるかの指標
SaaSを理解する5つの指標

まずCACはSlackは一社当たり一万ドルの顧客獲得費用を費やしている(新規有料顧客数÷セールス及びマーケティング費用)。次にMRRはSlackのようなビジネスはサブスクリプションで毎月毎月入ってくる収入でSlackは一顧客あたり550ドルを得ているので18.2カ月でCACを回収することになる。LTVでは一顧客あたりの収入×継続月収。これはLTV=一顧客あたりの収入÷Churn Rate(解約率)にしてもいい。ここから一万ドルを回収するためには18.2カ月以上継続してもらいたい、そのためには5.5%以下にChurn Rateは押さえなければいけない。凄いことにSlackの場合は逆に解約よりも既存の有料顧客が純増している状態。Slackはみんなが使っているから私らも使い始めようという状態になっている。NDRはすでに獲得した顧客の売上高をどれだけ維持できるかでSlackのNDRは120%以上を維持している。これらにより過去五年間Slackの年間収益は増え続けている。ここをセールスフォースは評価しているものと考えられる。

順風満帆のようだが後はマイクロソフトのTeamsとの戦い。(ちなみにうちの会社はTeams)今のところはTeamsの方が大きく成長しているとこのことでSlack側も焦りがあるのかもしれないというところ。私はまだまだ両方使いきれていないが私の研究所だと原子力関連施設でもあるからか特に情報管理が厳しくなかなか自由につかえず両方がうまく使えていないが、これからも両方試しながら今後を見守っていきたい。

第四章では『GAFA』の中でも売り上げがNo.1であるアマゾンについての深堀

アマゾンはいまだに売上高が年20-30%も成長しているモンスター企業。GAFAの中でも今は売上高No.1。アマゾンは利益ベースでみると減価償却費があるためあまり利益が出ていないように見えるがキャッシュベースでみると減価償却費は実際のキャッシュアウトはしないためキャッシュが残っている様子が見て取れる。この減価償却費の大きさを見るとアマゾンが過去にいかに多くの投資をしてきたことを示している。アマゾン自体はキャッシュを生み続ける経営をしているということになる。

ここではまず最初にCCC(Cash Conversion Cycle)で資金の回収期間を見ると

CCCの説明

アマゾンはCCCがなんとマイナス。ふつうは仕入れをして在庫をもって販売という流れ。プロセスは変わらないもののアマゾンの資金の流れは商品が売れて入金があって支払いの流れ。アマゾンのビジネスモデルはアマゾンが秘密主義であることからよくわかっていないこともあるが、アマゾンがモンスター企業であるからこそバーゲニングパワーが強く(強すぎて)こういったことが可能になっているかもしれない。

本書をここまで読み進めるとアマゾンは利益のほとんどを投資に回している企業という表現よりも『営業CF(一章に出てきた本業で稼いだCF)のほとんどを投資に回している』ということとが本書を読み進めるとわかってくる。ここで営業CFと投資CFからフリーCFを説明している。

フリーCF= 営業CF+投資CF

これは事業活動を通じて企業にのこり、自由に使えるお金になる。これがプラスであれば企業は銀行など債権者に返済したり、株主に資金を還元したり、さらに将来の投資にキャッシュを回したりできる。

そしてアマゾンは生み出したキャッシュで何に投資してきたのだろうか?大きな成果としては二つ。一つはAWS(アマゾンウェブサービス)もう一つは物流。アマゾンは今やEC事業の支えとなる物流とクラウドビジネスの上流を自前で押さえている点が凄い。上流を抑えているからこそBtoBが強くNetflix、Zoom、SlackなどはAWS上で動いているという。

ここまで第四章まで書いてきたが長くなってきたので二回に分けようと思う。読み流すこともできるがきちんと読むと大変重い本だった。。。。