岩波文庫読書録①【読書について他二篇】ショウペンハウエル&斎藤忍随

岩波文庫については大学院博士課程の頃に公益財団法人風樹会から給付型の奨学金を頂いていた。風樹会は岩波書店の創業者である岩波茂雄(1881年~1946年)が創設されたものであることは存じ上げていたが学生の頃には正直あまり思いをはせることはなかった。しかしいつかは恩返しをしたいと考えていた。ここでは岩波文庫をオーストラリアからオンラインで新たに購入し、レビューして少しでも古典を学びなおしながら要約やレビューを書いていこう。幾ばくかの人が岩波書店の本を取っていただければ幸いだ。

  1. 思索

私がこの本を最初に手に取ったのはいつかは覚えていないがおそらく大学院だったころのことだろうと思う。ここに書いてある問題意識は無意識のうちに覚えて日々を過ごしていたように思う。短い文章の中にも勉強になることがたくさんで再度読んだ今でも勉強になることが豊富にある。今回は本書の中から気になったものを引用しながらブログを書いていこうと思う。引用したところは太字で示す。

数量がいかに豊かでも、整理がついていなければ蔵書の効用はおぼつかなく、数量は乏しくても整理の完璧な蔵書であれば優れた効果を収めるが、知識も場合も事情は全く同様である。

まさにそうで私はたくさん本を読んできたがあまり身になっている気がしない。最近はやはりきちんと丁寧に読んで教えながらまとめていくことできちんと体系的な知識として身に着けたいと思う日々だ。

ところで読書と学習の二つならば実際誰でも思うままに取り掛かれるが、思索となるとそうはいかないのが普通である。

なるほどと思う。私の場合は読書と学習は勉強で、思索は研究だととらえているが。読書によって考えることを手伝ってもらっているか自ら思索しているかはなかなかわかりづらいが意識したいところだと思う。少し考えてみたが思索は私らの場合は試作ともとらえてよいのではないかと思った。今まで学習したことから考えさせてもらったことを通して新しく科学を生み出す作業。実際にこれまでにない実験し出てきたデータを解析しながら考えることにより新しい知識を試作していく。これまで学んだことも含めて新しいデータをどう理解するかを総合して思索しているものだと思う。思索をすることは簡単ではないということは常に問題意識として置いている。

誰でも次のような悔いに悩まされたことがあるかもしれない。(中略)けれども自分の施策で獲得した真理であれば、その価値は書中の真理に百倍も勝る。

まさにこれは一つの論文を完成させた時に感じることである。論文を書くのは大変だが論文を公表する過程を終えて一つの論文を完成させた時、論文の中には一つの私自身が発見した知識というものが完成した形で収められている。これを絞り出すという作業によって得られた真実は本で学ぶどんなことよりも重要である。これは著者が本を書くことも同じなのかもしれない。

読書は言ってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである。

これはなるほどなと思っている。研究者から立場したら全く納得できることだ。他人の論文を読んでいるときは研究の時間ではなく勉強している時間である。他人の発見した真実を目的や手法や知的アプローチ、実験的アプローチも含めて勉強させてもらっているが自分がみずから知識を生み出す場合は実際に自分で考えて自分で行動して知識を生み出していくほかない。

読書で生涯を過ごし、様々な本から知恵をくみ取った人は、旅行案内書を幾冊も読んで、ある土地に精通した人のようなものである。

なるほど。やはり勉強も大事だが実際に行ってみたりして体験・経験することが大事だと思う。一方で本などで読んでおくことで刺激される知的探求心などもあるから両方大事だと思う。

第一級の精神にふさわしい特徴は、その判断がすべて他人の世話にならずに直接自分が下したものであるということである。

これに関しては思うことがある。私は第一級でないことは明らかで本を読むことで学ぶことがたくさんあり研究に役立てている。私が出会った中で第一級だと思う研究者がいる。彼は教科書で学ぶことがなかったという。これには驚きだったがもっと驚いたのは彼との議論である。頭の回転が速い天才というだけでなく、彼は原理原則に基づいて公式を何もないところから書き出せる。これには驚いた。本書に書いてある第一級の精神に近いレベルなのではないか。

ここには引用はしないが、思索の14のところで真に価値があるのが一人の思想家が第一に自分のために思索した思想だけであると言っている。もう一つのタイプの思想家はソフィストで彼らは世間から思想家だと思われることを念願し、かくして世人から得ようと望むもの、つまり名声の中に幸福を求める。これら人間や学問の習熟度によると思われるが意識はしておきたい視点だと思う。

2.著作と文体

まず第一に著作家には二つのタイプがある。事柄そのもののために書くものと、書くために書くものである。第一のタイプに入る人々は思想を所有し、経験を積んでいて、それを伝達する価値のあるものと考えている。第二のタイプに入る人々は金銭を必要とし、要するに金銭のために書く。彼らは書くために考える。

頑張って第一のタイプに憧れて頑張っているけど第二の気持ちもわかるのが辛いところ。論文は書くべきものを書きたいのだけれでもすごく良い実験結果だったり実験が凄くうまく行くこともまれなのでその場合は書く力で頑張らなくてはならない。

そこで、この不正直な空気を一掃するために何よりも重要なのは、無頼漢的文筆業界が挙げてよりどころにする楯、すなわち匿名という方法を廃止することであろう

上の文章に始まる数ページは現在のインターネット特に日本で時々議論されているYoutuberや有名人に対する誹謗中傷などの問題に対して大変示唆があった。確かに匿名性があることによって無責任な発言が出てくることもあるが、一方で匿名であるからこそ本音も出てくるものもある。著者の主張はわからなくもない。日本のネット文化は違う方向に行っているようだ。僕も少なくも雑誌などや新聞などは著者は明らかにしてほしいと思うことがある。よい文章や有益な文章を書く人は覚えておきたいし、明らかなマナー違反をしているような文章の場合、だれが書いたものなのか気になる。

そこで、すぐれた文体たるための第一の規則は、主張すべきものを所有することである。あるいはこの規則は第一規則どころではなく、第二第三をほとんど必要としないほどの、十分な規則といってよい。

まことに仰る通り。たくさんの読書や論文のからの情報も重要だけれど、実験や解析などを通じて少しづつでも知見というものをためて、書くべきというものができたときに書きたい。論文はこれは世の中のために書いてべきと思って書いている状態が理想で毎日悩みながらでもこの書くべきことを研究を通して見つけて、そして実際に書くべきことを書いていくという研究生活を送っていきたい。

これに反して精神を備えた人々の作品をひらくと、著者たちは真実の言葉で我々に語り掛けてくる。だからこそ、彼らは我々を鼓舞し、我々を養うことができるのである。

ここまでわかっているかはわからないが本は一冊でもはまれば人生を変える力があると思う。真実の言葉で書かれている本は見つけていきたいとは思うが。書く方としては自分が徹底的に考えて、伝えるべき内容をなるべく読者に届くように頑張って書きたいと思っている。妥協しないで頑張っていきたい。

表現曖昧、辞句不明瞭ということは、いついかなる場合でも、非常に困った兆候である。

無意味なものを書き添えるくらいなら、良い部分でも切り捨てるほうがはるかにましである

理想はわかるがなかなか自分でやるのは難しいと感じている。なのでこういった言葉に出会うたびに自分が今書いている文章ではどうするか?と問い続けることをしたい。英語のライティングのテキストではよく形容詞、形容動詞は大抵の場合いらない。なるべく簡潔にかけと書いてあるが。同じ意味ではより簡潔に短くわかりやすく書きロジックがわかりやすくなるように書きたい。気持ちはどんどん書き足していきたくなるのだが押さえながら。。読者に良く届くように心がけていく。もうすでに長いが笑。

3.読書について

富者に対する非難は、これに尽きない。富と暇の活用を怠り、富と暇に最大の価値を与える生活に意を用いなかった点をさらに咎めるべきである。

これは現代においても示唆に富むコメントである。特に格差社会が話題になっている今だからこそ。私自身はありがたいことに最近になって余裕ができてた。仕事も慣れてきて時間に余裕が出てきた。しかし余ったお金と時間を有用に使えるかというとなかなか難しい課題である。最近研究グラントを評価していてよい科学者はきちんとお金を調達してお金を使って社会を豊かにしているなと感じた。常に今あるものを社会に還元して使っていけるように常に考えながら過ごしていきたいものである。

読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるに過ぎない。(中略)ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、次第に自分でものを考える力を失っていく

なるほど。私自身は本や論文をよく読むほうだが、それらは刺激のようなものだと思っている。それにより世界が広がったり忘れていた重要なことを思い出させてくれる。ただし研究者や一人の人間として豊かな生活をするからそれからいかに学びそれを使っていくかどうかである。自分で行動して知識を使いながらその行動の結果を観測するなかで我々は考える。なので常に行動すること、いかに知識を使うかを意識しながら人生生きていきたい。

良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである。

40才を手前にしてやっとこのことを認識してきたかな。体力や健康の問題もあるし、良い仕事には時間がかかる。良書をなるべく読んで、良い研究を書き残していきたいのものだ。古典は重要なようにここで書かれているがそう思うときもあれば良書を新刊でみるときもある。あまり構えずすべての本は読めないのだから出会った本の中から引き出すものを引き出していきたいと考えている。

書物を買い求めるのは結構なことであろう。ただしついでにそれを読む時間も、買い求めることができればである。しかし多くの場合、我々は書物の購入とその内容の獲得とを混同している。

これはそう。私はたくさん本を買ってきたが最近は読み終わってからでないと買わないようにした。そうしたらあまり読めないことがわかってきたし本にはそこまでお金は使いたくても使えない。本当に消化したと思われる本も少なくていつかはきちんと読まなくてはと思っている本もたくさんある一方、新しい本はたくさん出てくる。ここにブログを書いてまとめていこうとしているのも本を本当に理解するということはまとめて人に説明できるようにしてからと思っているのでこうやって書くことで少しはましになるのではないかと願っている。

哲学の正規の軌道を延長したのは最近ではカントであるが、

私はカントの純粋理性批判が好きなでやはり読み直して理解しておきたいなと思った次第だ。

ここらへんで読書については終わろうかなとおもう。まとめると人生は短いので良書を正しく理解して多読はせず思索をしろ、そこからきちんと書くべきものを持ち、そのうえで良く書き、そのうえで文体ができれば言うことなし。。