本のレビュー11 【未来経済都市 沖縄】安里昌利著

最近沖縄が恋しくなって沖縄の経済について興味あったので購入して一気に読んだ。

沖縄には人生で二回行ったことがある。一回目はもう15年以上にも前になるかもしれない。大学の卒業旅行だ。サークルの同期といったときで同期には計画から何から何まで任せきりで参加させてもらっていていまだに申し訳なく思っている。どこに行くか夜話し合ったり、自分の研究計画書を見られたり、卒業旅行中も研究のことを忘れられなかったり、いろいろなことを覚えている。スキューバダイビングではパニック障害になった思い出がある。。。楽しかった。また行きたいと思った。

二回目に行ったのは実は最近だ。もちろんコロナの前だった。琉球大の共同研究者とOISTの研究者を訪問しに行ったときだ。滞在期間は短かったがまた機会があったら行けるだろうと思っていたらコロナになってしまった。OISTも賛否両論あるだろうなと思ったが面白い研究所ができることは素直に良いなと思う。今のところ私のいる環境も悪くないので是非とも行きたいという感じではないが。また分野は狭いと思うのでOISTにせよAPUにせよ沖縄で言えば琉球大とか日本で言えば東大とか本格的に文理にわたり総合的な基礎研究ができる大きな機関と比べるのはいかがなものかと思う。

本書は出版はコロナ前の2018年11月に書かれたものである。著者は沖縄銀行の元頭取の方で沖縄県宜野座村出身生まれ。1973年に琉球大学を卒業されているみたいなので沖縄返還後の経済の発展とともにお仕事をされてきた方だと思う。おそらく2018年頃はイケイケの沖縄経済だったと記憶している。本書を読む前に『沖縄から貧困がなくならない本当の理由』樋口耕太郎著を読んでいたので本書を読んだとき申し訳ないが少し良いところを書きすぎじゃないかと思った。沖縄には発展してほしい。そしてうまく行っているところはたくさんあるだろう。一方でこのポテンシャルでなぜこの程度なのかというところもありその点は樋口氏の本で学んだ。沖縄は日本の縮図みたいなところがあり、沖縄の問題は日本の問題であり沖縄が解決できるのなら日本にも参考になることがたくさんあるはずだ。

本書で特に気になったところをここに書き残していく。私は福岡出身で大学から東京、博士号取得後はアメリカ、そして今はオーストラリアに来たので正直沖縄の土地勘など全くない。逆に沖縄好き好きバイアスを全く取り除いてグーグルマップを見ると沖縄は北部が全く発展していないように見える。これにはいろいろと理由があるのだろう。そしてなぜ鉄道が走らないのかを考える。実際には鉄道はあってなくなったのだと。今はゆいレールがあるがたったの二両編成で距離も長くない。本書を見ると鉄道が復活するかもしれないと書いてあるが、軽くネット上で読んだところ、ゆいレールのこれ以上の拡張もたやすくはない。もし鉄道ができて南北に人の流れが活発になると沖縄はさらに発展するのだろうがそこはここ10年位のスパンでは大きなことも起きそうにもない。北部の発展に勢いがついてくるとまた違って景色がみえてくるのではないか?渋滞が多いことは残念だ。

あとは基地の返還については本書で学んだが返還地を使って再開発されれば沖縄発展していくだろう。いろいろとアイデアがあることは本書で学んだ。一方で少し調べてみるとこの返還もそんなに簡単に進んでいくものではないなと思った。一刻も早く基地が返還されて開発が始まると沖縄の発展も早まるはずだなと思った。

沖縄は人口が増えていて出生率も高い。日本の少子化にブレーキをかけるかもしれない。ここで沖縄の出生率を見てみると確かに第一位。もうひとつ気が付いたのは九州は全般的に高い。福岡が勢いがあるのもこれも原因があるんじゃないかと思った。結局視点が福岡出身か。

沖縄がアジアの中心で国際物流拠点や観光を足掛かりに地理的優位性を示しているが、ここでライバルとしてどうしても僕の出身地福岡が気になってくる。同じ論理を福岡も使っていた。今のところ福岡市長の方がビジョンを持っている気がする。物流と観光では沖縄は勝てるがビジネスでは福岡に分があるのではないか?九州としてとらえると観光でも沖縄と戦えそう。一方で沖縄がシンガポールなどを参考にして空港と港を重要視しているのは本書でなるほどと思った。島の発展は空港と港がボトルネック。しっかり投資をして世界最高水準のものができれば沖縄は重要なところになるだろう。コロナ禍でもしっかり投資をし続けてほしい。

後意外と内地から遠い。福岡からでも近くはないなって正直思った。実際に行くとわかる。福岡からちょっと飛行機で行こうかなって思ったがそんなに簡単じゃなかった。

OISTには期待しているが一方で本当にインパクトが残せる仕事ができていてそれが琉大の様に他分野にわたってできてくるかというとなかなか難しいのではないか?高いお金を出して優秀な人々だけを集めてもしっかり若い人を集めて実際に手を動かす大学生・院生そしてポスドクなどが活動しながら研究分野も広がったほうが良いし。そして高い補助金を入れ続けないで成果を出せるようなサステイナブルな組織になる必要はあるのではないか?僕の印象だと留学している院生とかもあまりに日本に残って研究していくような意見を持っている人は少なかった。たとえば海外の名門大学に行く準備をしている学生の話などはよく聞いた。そういう感じで2、3年沖縄にいたって良い研究できるかなって感じがした。

本書ではスタートアップも開業率が高いことを示している。女性起業家が多いことは大変すばらしい。一方で本当に質の高いスタートアップが生まれていって成長していっているかどうか?沖縄には地場の成長しない競争もしない外に行かない大企業が多かったのではないか?一方、これから日本でそして世界で戦えるスタートアップが出てくると変わるかもしれない。

沖縄はハワイよりも観光客が多くなったが一人当たりの消費金額が少ない。それは滞在期間によってしまうからだ。今はハワイが先にコロナから復活して沖縄は全くの劣勢になってしまった。とにかく沖縄は観光業から立ち直ってしっかり投資をしてなるべく地場の産業と経済を作っていかないとなかなか難しい。コロナ後どうなるか?コロナで若い人が逆に残り地元に人材が残るようなことになればいいが。

また沖縄は最低賃金が低すぎる。沖縄の経済発展に伴い、他県に先駆けて最低賃金をあげていって日本中からも労働者が殺到するような場所にしなければならないんじゃないか?と思う。でもそういうことはやりたくなさそう。。沖縄の経済が好調でも沖縄では人より高い給料をもらうことを避ける文化があるという。競争で人に勝ってはいけないと。そうすると余計に最低賃金をあげて皆を底上げしていく政策が効くはずなのだが。みんなの賃金上がっているから上げましょうみたいな。

あとそれ関連では調べてみると宮古島もポテンシャルという点ではおおきいのではないか?5万人程度で2015年から2020年で人口が増えたというが以外にもそれまではずっと減ってきていたことを知って驚いた。。

沖縄はポテンシャルしかない。本書を読むとそれがわかる。じゃあなぜ今までそれがポテンシャルのままなのか?これからも沖縄には注目してきたい。できることがあれば応援していくつもりだ。

本のレビュー10 【ゲーム理論入門の入門】鎌田雄一郎著

ゲーム理論は興味があるけど毎回入門書などを読んでわかった気になった後、入門とプロレベルの差に思いをはせて勉強しても無駄でしょうと思ったりする。まあでもまた入門書を読みだしたり。やはり興味があるようだ。いつもいつかは勉強しなおしたいって思っていてまたそのサイクルが来たようでこの本を手に取った。正直に本を手に取る前は入門の入門はさすがに要らんでしょと思ったがやはり専門家が膨大な知識量を元に入門書を書いてくれたことでものすごい勉強になった本だった。

まず1章部分でこの本を買った価値があったと思う。ゲーム理論が意思決定をよりクリアにする方法論だということは知ってはいたが1章で3つの意思決定問題があることを示してくれた。これにより自分が明らかにしたいもっと知りたいところがわかってゲーム理論をやっぱり勉強したいというモチベーションが上がった。

まずは一つ目としてカジノでルーレットのどのスロットにボールが入るか当てることを例に挙げている。確率を考えてどうベットしていくかは計算ができる。したがってここからは客観的予想ができるそれを元に戦略を立てる。さらにいうと前もって準備できることである。

次に競馬でどの馬が勝つかはある程度データはあるもののそのデータをそれらのデータをどのように組み合わせて、どのような文脈の中で使い、どの馬が勝つか予想することは主観的予想である。

最後はジャンケンなど、相手がいる状況である程度データもあるが、文脈もある中で、自分が相手の出方を予想して意思決定する。さらに相手も自分の出方を予想して意思決定する。この状況を戦略的状況といい、ゲーム理論ではこの戦略的状況をゲームという。このもっとも難しい意思決定問題『ゲーム』で何が起きるのかを予想するのがゲーム理論の役割である。

第二章はナッシュ均衡について書いてある。ゲーム理論の中でもっとも基本的な概念であるが、この概念の本質をしれば一見似通っていない様々な状況の本質がシンプルな一つのフレームワークで分析できることを著者は示す。これはゲーム理論の醍醐味だという。

その後、ナッシュ均衡についてかなりのページ数を使って説明している。ナッシュ均衡がいかに大事な概念で大事すぎてもう言及されないほどになっているというのだ。このナッシュ均衡の章の中で囚人のジレンマというよくゲーム理論で出てくる例を挙げる。よく出てくる問題なのだがまず一つ目の論点として私がこの本で特に学んだのは多岐にわたる社会経済問題を我々は囚人のジレンマというフレームワークでとらえて、様々な状況の本質をシンプルなフレームワークにとらえ直して考えることができるというのがゲーム理論の面白さだということだ。もう一つはジレンマというものがあるのが当然だがゲーム理論で学ぶ結局そんなに世の中簡単じゃないよねというところだ。正直、著者の妻の夕食の支度で著者が参加するかしないかをこのゲームフレームワークでとらえたときやはり世の中単純ではないよなと思ってしまう。

そして第3章と4章とナッシュ均衡を少しづつ複雑な問題にしていっているように読み取れた。3章ではナッシュ均衡が一つではない場合を議論しカップルのどこの携帯会社を選ぶか問題を考える。4章ではナッシュ均衡が存在しない場合を議論しジャンケンを始めに議論し、ジャンケンに勝つ方法がないということがきっちりと結果として証明できることを示す。その後、実際にサッカーのPK戦でもそういった必勝法がないことも示されている。またカリスマ候補者と平凡な候補者が王道政策、外道政策をどのように選ぶかについて解説している。

5章に入ると少し変わってきてこれまでのように同時に意思決定するのではなく時間を追ってゲームを進行する場合について考えている。ここでは先ほどのカップルの携帯会社選定の例を挙げた後、バークレーでラーメン店一風堂、博多天神(そしてじゃんがら)の進出ゲームを考える。ここで初めてゲームの木が出てくる。ここでゲームの木の書き方のルールを書いてあったのは本書で初めて見た気がする。今まで自分は適当に考えていたな。きちんと書かないと意思決定には役に立たないのだなと例をだして示してもらった感じだ。ここでは当然場合分けで解が出てくる。

このラーメン屋さんの出店競争の解説で学んだことは理論的には正しいと思われることを押さえておくことは大事だとということ。これは個人的にも実際に経験したことで、現実世界で相手が自分の利益を確保するならこう行動するだろうと考えたが実際にはそう行動しなかったことでびっくりしたことがある。きちんと状況を分析してからこそなぜこの人はそう行動しないんだろうと考えられた。相手が利潤を最大化しない、利潤最大化していることを知らないという状況は社会では常にあると思う。だからといって自分が知らずにいるというわけにはいかないなと思った。

第6章にきて不完全情報ゲームについてだ。この章では意思決定点のどこにいるかわかない状況で意思決定を集めてセットにしている情報セットが示される。だんだん難しくなってきた。ここではセンスのないお金持ち、画家と画家の弟子の意思決定の画家ゲームが例として示される。その後、宮崎あおいと岡田准一の結婚から話題を始めてデートゲームを解く。

本の内容は大体ここで終わり。なかなか簡単な内容にまとめられているがイントロからだんだんゲーム理論の要素を一つ一つ加えながら書き進められていてなるほど入門書の入門とはいえよく仕込まれているなと思った。最後は参考文献が書いてあってこれからもっと読み進めていきたい場合の参考になった。

最後のおわりにでは著者が本を書いたきっかけを書いてくださっていてこのモチベーションには心を打たれた。私の祖父は両方ともなくなっているがこういう風に思うのは私の指導教官に対してかもしれない。先生がまだいろいろとわかるうちに彼をうならせるような成果を残しておきたいと思った。本書は大変勉強になって内容は入門の入門書でもゲーム理論のポイントに触れた気がする。これからいろいろな本を読んでいくにしても本書で学んだポイントというものは生きていく気がする。

本のレビュー9③【人間の建設】岡潔・小林秀雄

数学と詩の相似

ここは物理学と数学が関係しているせいか話は深いがとてもわかりやすかった。まず小林が岡に対し、あなたは確信したことばかり書いていらっしゃいますね。自分の確信したことしか文章に書いていない。これは不思議なことなんですが、今の学者は確信したことなんか一言も書きません。学説は書きますよ、知識は書きますよ、しかし私は人間として、人生をこう渡っているということを書いている学者は実にまれなのです。そういうことを当然しなければならない哲学者も、それをしている人が稀なのです。そういうことをしている人は本当に少ないのですよ。フランスには今度こんな派が現れたとか、それを紹介するとか解説するとか、文章はたくさんあります。そういう文章は知識としては有益でしょうが、私は文章としてものを読みますからね。その人の確信が表れていないような文章は面白くないのです。岡さんの文章は確信だけが書いてあるのですよ。

まあトップレベルの数学者と他の学者を比べるとおかしいとは思うが。ここはおそらく岡も小林にも共通している世界で起こっている知力低下への問題意識が根底にあると思う。つまり学説や解説を書くことは学者の仕事としては一部のことでそれしか言えないということが知力低下という意味だろうと考えた。例えば登山家がエベレストなどに登山成功して、道具は何を使った、気温は何度だったとか、ルートはどこを使ったかなどだけをまとめるようなもので、例えば山に登るうえでどういう精神的な準備をしたか、登山の途中でどういうことを考えたか?、また山を登るとはどういう意味を持つのか?総合的に知情意の興奮が言葉として表現されていないと意味がないだろう。その経験から何を確信したか、確信したことを書いてある文章がたくさん文章を読んできた小林には響くということだろうか。その人にしか確信できなかったこととかを垣間見れると確かに響くのかもしれない。

ここには大変重要なヒントが込められていると思っていて、私のような物理学者でも確信から論文になる。いくら良いデータがそろっていても確信がなければ文章は書けない。一体このデータと過去の研究から総合して一体なにがわかったか?ということが確信していないと論文は書けない。一方ででそれがハッキリしている場合は書けると思う。少なくとも書きやすい。ショーペンハウエルも『読書について』で言ったようにその確信があって文章を書けるというのが第一級だ。おそらく研究者は自分の全部の書いた論文でこの部分が確信で書いたものだということは当てられるだろう。一方でショーペンハウエルの言う第一級には当てはまらないが書きながら考えるということもある。書きながら少しづつ考えて確信につながる場合もある。前者が第一級であることだろうが明らかに私は第一級ではないと思う。おそらくそういう人が大半なのではなかろうか?現実的にはこれら二つの論文は多くの人では混ざっているだろう。

この章の後半では数学について岡が続けて説明しているが、納得できるほど理解できなかったがおそらくこれまでの文章も含めておそらく数学者は詩人の様に全く何もないところから形も何もないところから形にしていく。物理学者の様に現実を説明するために数学的概念や理論を使うということがない。そもそも物理学者は自然が存在するという仮定があるが、数学にはそれに相当するものがない。全く何もないところから形を作っていく。なので数学者は生涯を通して研究していく中で自分のなかに数学史と数学体系というものがあるが、物理学者にはそれがないのだろうと。

はじめに言葉

ここの章では西洋哲学側からみるとカント哲学的理性の働きをかいていると思っていて数学でも行き詰まりと解決の繰り返しがあることを言っていて問題が解けた後に新たな問題が出てくるとか行き詰まることでその中心的な問題がとけなければ次に進めないということがあるが、基本的には後戻りはないということだ。まさに理性の働きの別の見方だと思った。

その後は教育の話になっていて教師の給与が安いことが書いてあり。まさに現代でも全くそうなっている。日本というものは全く変わっていないのだろうな。

また面白かったのは、岡という天才数学者がいうには方程式が最初に浮かぶことは決してありません。方程式を立てておくと、頭がそのように動いて言葉が出ていくるのではありません。ところどころ文字を使うように方程式を使うだけです。というのは面白かった。物理でも結局そうなんだ。結局言葉があってそれを表現する方法として数学を使っているに過ぎないのかもしれない。

近代数学と情緒

ここは数学の話になっていて岡が多くを説明しているが数学のことはわからないでも岡がもっている数学者として数学のマップと歴史感みたいなものがあってそれを元に話しているような感じがある。数学は大きく分けて幾何学、代数学、解析学があって岡は解析学だと。解析学で主体になっているものは関数で、19世紀になって複素数というものがよくわかってきて急激に伸びだしたという。よくよく考えると今まで学んできたこともこういった数学の準備をたどってきたようなものなのでこういった大きな流れを知って勉強ができたならよかったのになと思うが、今からでも遅くないのかもしれない。。ちゃんと大きな流れで物理に向き合っているのだろうか?私は。。。

記憶がよみがえる

記憶について二人で語っているが難しかった。我々が記憶として持っている記憶以上に原始時代から原体験としてつないできた記憶があるのかもしれない。結局人はそこに立ち返ることになるのだろうか?

批評の極意

ここで小林がプラトンが好きだというところから話が始まって、小林が好きな理由は、大変簡単なことでして。あれ、哲学の専門書じゃないからです。専門用語なんてひとつもありません。定義を知らないものにはわからないという不便が無いからです。こちらが頭をハッキリと保って、あの人の言うなりになってれば、予備知識なしに、物事をとことんまで考えさせてくれるからです。

いままで食わず嫌いだったが読んでみようと思った。単純に。

そこから会話は日本人について人ある。神風について言及し、あれができる民族でなければ世界の滅亡を防ぎとめることはできないとまで思うのです。と岡が言う。現代人の日本人としてはちょっと危険な思想かなと思ってしまう。時代がちがうのだろうか?表面的には欧米人と日本人の考え方の違いが議論されてあってこの本のテーマでもある個人主義とか小我についてとらえ方違いが述べられているが今は彼らのような考え方をすると少し差別的な気もした。日本人として欧米人に比べて小我にこだわっていないかといわれたら正直難しい。日本人にしかできないアートや小説、音楽などそして日本人にしかわからないそれらというものがあるのだろうか?宗教観や哲学などこれまでも話も総合して我々日本人は何を見ていて原点に戻るそしたらどうなるのか?西洋的な考え方以前の我々日本人に固有な考え方などはどういったものだったのだろうか?今どう残っているのだろうか。じわじわと効いている。これはよくありがちな議論に行きつきがちだが考えてもみようと思う。物理の場合は日本人らしい研究っていうのはあるかもしれない。

素読教育の必要

素読というのは江戸時代の学習方法の一つらしいが、朝早く先生のもとに集まり意味の解釈を加えず文字を大きな声で読み上げるという。

現在で言うと輪講と音読の会みたいだろうか?ただ解釈はしないらしいから音読の会かな。昔は四書をやっていたみたいだが今は本が多すぎて何をやっていいのかもわからないが。今でも専門書でも全く関係のない読書会でも勉強会をする機会が減ってしまった。大学の先生だと教えながらこういったことを図らずともやっているのかもしれない。こうやってブログを書いているのは少しでも本から学ぶものをよりよく整理し自分の言葉に直すことによって脳に定着させたいという意味でやっているがやっている感じだと少しは意味があるのかもしれないと思う。学習できる環境というものは本当に大事だなとも思った。SNSやメタバースまである現代では少し形が異なるかもしれないがここに書いてることを参考に自分も学び続ける環境を作っていきたいと思う。

ここまでで本編は終わり。かなり考えさせられる本であった。こうやって書きながら読むことで少しは深く読めたがそれでもまたざっくりと読んでみたいという感覚もあるし、何度も深く掘り下げていきたいなと思っているところもある。正直僕の感覚だと小林秀雄が言っているところの方が難しく、岡潔が言っているところの方が理解できた気がする。理系なので仕方がないのかもしれないが小林が私にはまったく見えていないものが見えているのだろうと想像しておくことは大事なことだと思っていて。僕自身が行っている考え方で見えないこと想像できないことがあってもそれが存在しないという意味ではない。他の人が意味を見つけている可能性があるというのは常に意識として持っておきたいと思った。さてさてこれからもたくさん勉強していきたいと思わせてくれる本だった。。

本のレビュー9②【人間の建設】岡潔・小林秀雄

破壊だけの自然科学

この章では岡が特に現代物理学における数学者の立場からの批判について書いてある。特に相対性理論について数学的立場からの批判を行っている。僕の理解不足か勘違いであるかもしれないし1965年以前のことだからしれないが岡の批判は当てはまっていないと思う。岡は相対性理論が実験不可のものであるから、物理学が近似的に実験が可能な物理学公理体系から超越的な公理体系になってしまい、物理が知的に独立していないという。彼は現在の物理学は数学者が数学的に批判すれば、物理学ではない。なんと言いますか、哲学の一種ですか。という。

そこで自然科学は破壊の科学で建設は何もしていないという。現代にいたってはなかなかこれには同意できないが、批判されることに対しては感謝できていろいろなことが考えられる。数学者と物理学者はまだ話していないと言っているが現代でもそのような気がするが。。残念ながら。でもトポロジーとかは少し進んでいるのか。僕もすこし考えやネットワークを広げなければと思う。数学者、物理学者、化学者とか分野にわたって喧々諤々と議論するっていう場面は現代ではあまりないしそれはこの時代からすでに始まっていたのかもしれない。そう考えると自分の物理学の研究でも新しい見え方とか自分にしか出来なさそうなこと一生懸命数学者とコラボしてみるとか考えられるな。。少し頭にとどめておきたいところ。

岡がいう。大きな問題が決して見えないというのが人類の現状です。物理で言えば、物理学的公理が哲学的公理に変わったことも気づかない。

ここでの批判は現代でも起きていることでもある。最近気になって読んでいたのはLost in Mathという本ですこし前に読んだので内容は忘れてしまっていたが基本的には対称性にというものに取りつかれて標準モデルを構築している理論物理が実験結果をうまくとらえられていない。物理学の立場ならば実験結果があればそれに合うように理論を再構築しなければいけない。しかし自然には美しい対称性があるべきだと思い込み受け入れられないということが現代でも起こっている。自然は我々の視点とか美意識でみてあるべき姿でいるわけではない。しかしそうと思いこむんでしまう。自然は美しく対称的であると。いままでもそれで沢山のことが説明できてきたと。しかし、そしてそれを元に学理を構築しようという試みはすでに物理学ではなく哲学の一種であるという批判が当てはまってしまう。よく考えると物理学はこういった状況に何度も歴史上見舞われてきてそれでも進化してきたのかもしれない。物理学は実験と理論双方があって理論が実験をないがしろにせずに学問を構築していくからこそ物理的公理体系であるということか。やはり。

アインシュタインという人間

おそらく岡は物理学者が嫌いだ。自然科学が弊害が多いと思っている。おそらく岡も小林も物理学をわかっているとはこの本を読んでいるうえでは思えないが、一つの発見としてはこの時代でももう専門分野で分断は起きていることがあるように思う。正直、岡も小林も無明と知性の低下を批判しながらも自らここに落ちてっているのではないかとすら思う。この本のテーマと彼らの会話を聞きながらやはりいろいろなことを学んでおいて学問もある一程度の余裕を持ちながらやらないと逆に当たり前のことに気が付けないようになっていくのではないかと思った。ハイゼンベルグの原理にしてもあの時代、ハイゼンベルグをはじめとする理論物理学者とカント派哲学者の対決を見ていてもまだまだ物理学者の量子力学の哲学的解釈もできていなかったし哲学の量子力学の理解も進んでいなかったことをハイゼンベルグの部分と全体を読んで思っていたが、数学と物理はそれ以上の差があったのかもしれない。あの頃はまだそういう時代だったのかもしれないと岡と小林の話を聞いていて考えた。

美的感動において

この章は正直あまりわからなかった。詩と絵について話をしているが両方とも疎いせいか話が分からなかった。

ただ、岡が章の最初に書いていた、日本は、戦後個人主義を取り入れたのだが、個人主義というものは日本国憲法の前文で書かれているような甘いものではない。それに同調して教育まで間違ってしまっている。その結果、現状はひどいことになっている。それに気づいて直してもらいたい。

ここには本書の最初から続く個性というものがわかっていないという二人の考え方がここでも続いていることがわかる。いろいろなテーマでものすごい情報量で話しているが根柢の問題意識というものは一貫しているという気がする。

人間の生きかた

ここでは人間の生き方というところではあるが主に文学特にトルストイとドストエフスキー、日本人は本居宣長などについてはながら理論とか体系とかは欧米から学んだものでもともと日本人には首尾一貫して理論をこしらえるなんて考えがもともとないんだということを小林がいう。

小林が言う。僕らも不思議なことだが、振り返ってみますと、20代でこれはと思ったことは変えていませんね。それを一歩も出ないのです。ただそれを少し詳しくしているだけです。

うーむ。なるほど。わかる気がするがわかりたくない気もする。研究を進めていくうえで博士論文の時にやったことがとても後々に影響することと同じことか?あの20代の頃に考えていて疑問に思っていたことの延長上に生涯の研究のキャリアがあるのか?ここはこの言葉についてよくよく考えておこう。むしろそこから抜けられないのであればこれまでの研究をしっかり復習して再度研究の行く先を見るということも大事かもしれない。新しいことをどんどんやりたくなっても来るがそもそも何がしたかったかと見直してみようと思う。物理で何が楽しいと思っていたか?なんで研究しているか?自分の性格も含めて時々考えてみることは結局、専門性と個性を見つめ直すことになり、研究者として重要なことだと考えるようになってきた。

批評家である小林がトルストイとドストエフスキーが両方とも偉いし、それは数学者である岡がリーマンとポアンカレどちらが好きかと小林に論じたって仕方がないですよといっていてこういう感覚は大事だなと思った。とにかく学者としても作家としても素晴らしいものを生み出したことは素直に受け入れてどのような分野でももう少し感覚的に評価していいのじゃないかって思った。この本を読んでいることがまさにそうだが。学者としての態度をここら辺の二人の掛け合いから学んだ。

無明の達人

ここではトルストイとドストエフスキーの話の続きながら、無明がテーマになっている。無明を知らないとむしろ極めないと物が見えない。ドラマにならないという。面白かったのはその後の議論でピカソもスペイン人を理解しないとわからないなと小林が言ったところから、やはり日本人には結局日本的なものしかわからないのだと岡と小林は言う。日本人が知れるものはやはり我々に関するものかもしれない。そういった点で前の章の本居宣長の話を思い出し、日本人はそもそも理論と体系なんて気にしなくて自分たちの考えを発展させてきたものだし、理論とか体系というのは西洋文化から借りて学んできたんだなということにもつながった。

いずれにせよ。文学を読んでこういう風に議論できるのは楽しいと思うから、やはり本はたくさん読んでおきたいなと思う。旅行もたくさんしておきたい。いろんな疑似経験、実経験をしていくと楽しくなるのだと感じる。

一という概念。

ここでまた数学的哲学的な議論に戻っていく。小林が数学者における一という観念という形で話し出したところで流れが変わる。岡は一を仮定して、一というものは否定しない。一はあるのかないのかわからないというが哲学的には一という数学的観念はPrioriであるということだろう。つまり一という意味とかなぜあるかというものは理性ではわからない。

そのあと議論は2や3など順序数の話になり、そうやって一から増えていく。単細胞から20億年かかって進化した人間については何もまだわかっていないよねという話になってくる。天才が生まれるのは環境か遺伝かという話になるがここら辺は現在の方が知見は溜まっているだろう。しかしいつの時代でも重要な議論なのかもしれない。議論としてはシンプルだがそれを話すのに科学、宗教、哲学の知識にわたってさらっと議論できるのが情報の密度の高さを示している。

ここらへんで3分の2ほどで今回はここらへんで終えようとおもう。次回は残りの部分を読んで書いていくつもりである。

本のレビュー9①【人間の建設】岡潔・小林秀雄 

学問を楽しむ心

学問は難しいものだから面白い。そして学問は非常に難しいもので、どうしても難しいことをやりたいと願う人だけが学者の資格を取れると小林は言っている。むずかしければ難しいほど面白いというのは誰にでもわかることですよ、そういう教育をしなくてはならないと僕は思うと小林は続ける。

この最初の導入で彼ら二人の会話を読みながら、30歳くらいの時に友人と話をしたことを思い出した。彼とは朝までお酒を飲みながらだったが喧々諤々と議論したことを覚えていて、彼は私の主張が全く受け入れられず、頑なに頭を縦に振らないことに納得がいかないようであった。おそらくそれを機に嫌われてしまったのではないかと思っているが、おそらく彼は今でも私を分からず屋だと思っていることだろうと思う。彼が言うには私は人にもっと学問を教えろということを言っていた。30歳イケイケだった私はそんな場合じゃない、自分が追及する学問をやることで精いっぱいであり、そんな余裕はみじんもない。そもそも教えてほしいっていう人に学問を教えることはできないという考え方だったからだ。どこかに学問をする資格なんてものがあるわけでもない、学問をするというのは意思と姿勢だけである。教えるなんてとんでもないと少し丸くなったが今でもそう思うことが多々ある。だから大学まで来て勉強教えてほしいというのは違うのよと言いたい。大学には環境がいくらでも整っているから好きなだけやりなさいよ。しかしこれは自分が無明であったんだと本書を読んで思い起こした。しかしながら、日本が貧しくなってきて変化が速い時代になりより成果が求められる時代ではそういう余裕も無くなってきたのかもしれない。。

しかし読み進めていくと彼らが持っている問題意識と私が今現在持っていることが全く一緒だったことがだんだんわかってくるのだが、これには素直に驚いた。なんと本書は1965年位に出ているものだからだ、まさに現代で起きていることではないか?この本を読んで自分の学者としての立ち位置が明確になったと思う。

無明ということ

人は自己中心に知情意し、感覚し、行為する。その自己中心的な広い意味の行為をしようとする本能を無明というと岡が話している。また人は無明を押さえさえすれば、やっていることが面白くなってくるということができると。

岡はいう。それほど私はピカソを高く評価しておりません。ああいう人がいてくれたら、無明のあることがよくわかって、倫理的効果があるから有意義だとしか思っていません。ピカソ自身は、無明を美だと思い違いして書いているのだろうと思われます。(中略)自我が強くなければ個性は出ない。個性の働きを持たなければ芸術品はつくれない、と考えていろいろやっていることは、いま日本も世界もそうです。良い絵がだんだん描けなくなっている原因の一つだと思います。

国を象徴する酒

ここでは小林が日本酒がうまくなくなった。酒に個性がなくなったという。僕らが若いころにがぶがぶ飲んでいた酒とはまるっきり違うのですよ。樽がなくなったでしょう。みんな瓶になりましたね。樽の香というものがありました。

ここでは岡が個性を重んずるということがどういうことか知らないのですねと。おもに小林が日本酒も小説も絵と同じでダメになっているという。世界の知力が低下しているとも。個性を競わせて、物を生かすということを忘れて、自分が作り出そうという方だけをやりだしたという。

ここらへんの文章はロジック的には世界のものが良くなくなってきた、知性の低下、個性、無明という問題意識について話している。

数学も個性を失う。

ここでは話が個性についてより深堀していくように議論が進んでいく。岡が言う。それがいわゆる個性いうもので全く似たところがない。そういういろいろな個性に共感が持てるというのは不思議ですが、そうなっていると思います。個性的なものを出してくればくるほど、共感が持ちやすいのです。

また以下の部分も面白い。小林が聞く。数学のいろいろな式の世界や数の世界を言葉に直すことはどうしてできないのでしょう。岡は、研究している途中のものは、言葉では言えませんが、出来上がってしまえば言葉で言えるのです。だから、できるだけ言葉で言い表して発表している。

この点にはかなり納得がいった。問題がわかったと思い論文にしてしまったことは言葉にできる。これば物理学でも同じようなことかな。論文にしたら自分が一から問題提起してすべて解いた問題なので専門家にも一般の人にもどのレベルに合わせても言葉に言い表すことができる状態になる。さらにその物理の歴史上の重要性、立ち位置などもわかる。

ここまででは個性や知力低下が問題意識としてあることが二人の会話でわかってくる。数学の体系を教えることが大変になってきていることをいう。これは今でも当てはまるのがおもしろい。物理でも過去10年の深化と進化といものはものすごくとても大学院で教えられるものではない。本では1930年以後の30年間の論文を大学院では読ませることはできないと言っているが、今では3年間の論文でも難しいだろう。まあそこは本質ではない。文脈で言うと本質は次の岡の言葉でこれが現代人にも刺さる。

世界の知力が低下すると暗黒時代になる。暗黒時代なると、物の良さがわからなくなる。真善美を問題にしようとしてもできないから、すぐに実社会に結びつけて考える。それしかできないから、それをするようになる。それが功利主義だと思います。西洋の歴史だって、ローマ時代は明らかな暗黒時代であって、あの時の思想は功利主義だったと思います。人は政治を重んじ、軍事を重んじ、土木工事を求める。そういうものしか認めない。現代もそういう時代になってきています。

科学的知性の限界

小林はいう。バッハの世界はこうであろうとか、言葉で表しますよね。最後には言葉にするわけです。岡はいう。文章を書くことなしに、思索を進めることはできません。書くから自分にもわかる。自分にさえわかればよいということで書きますが、やはり文章を書いているわけです。言葉で言い表すことなしには、人は長く思索できないのではないかと思います。

ここでは長くなっていて引用しないが、岡が自然が本当にあるかどうかわからない。自然があることを証明することは現在理性の世界といわれている範疇ではできない。ということ言う。数学は知性の世界のだけに存在していると考えてきたが、数学は知性の世界だけには存在しえないということが人は4000年かけてはじめてわかったという。実際に考えてみれば矛盾がないというのは感情の満足であるという。カント哲学で言っていることと似ているように思えるが岡は違うルートで似たような考えを導き出しているように思えた。

しかし驚いたのはそのあと岡と小林との対話は続き。小林はこうまとめる。わかりました。そうすると、岡さんの数学の世界というのは感情が土台の数学ですね。岡は答える。そうなんです。

人間と人生への無知

ここでもやはり世界の知性が下がっているとしか思えないと岡と小林は言う。数学の論文を読んでも音楽を聴いても、小説を読んでもそう結論するしか仕方ないという。

その後、ベルグソンとアインシュタインの衝突。感情を元にした科学の議論、アインシュタインが相対性理論を発表して原子爆弾が広島まで落ちるまでわずか25年しかかかっていないこと。それから時間とは何かという議論についてどういう風にかんがえるかなど。そしてキリスト教への議論そしてデカルトの哲学にわたって議論していく。

まだまだ三分の一くらいだが。今回はここらへんで終わろうと思う。読んでいて思うのは二人の思考がかなり深いながらも情報量の密度が高いということ。なかなか丁寧に読まないと僕の場合は言わんとしていることがわからなかった。

まずは学問とはどういうものか?という議論から始まり、非常に難しい学問だがどうしても難しいことをやりたいという人がやる。また学問をやるということは無明であるということ。つまり自己中心に知情意し、自己中心的な行為だということを話しているが、無明を抑えれば学問は楽しくなるという。そこから個性の話になり個性はあればあるほど共感が得られるということについて話していて個性とはどういうものだったか考えさせられるようになっている。数学という自然科学の学問をするうえで最後は言葉にしなくてはいけないということが直感とは少し違った。なるほどと今は思っているが正直まだ腑に落ちてはいない。科学知性の限界ではカント哲学の純粋理性批判のようにかっちりとした理論化はされていないが深い哲学が提示されていた。知情意にはかなりのヒントがあるように感じる。

ここまでで二人の問題意識は僕が理解したところでは世界の知性が低下しているということ。数学という自然科学のど真ん中の学問ですら知性だけの問題ではないのだが、現代人にはそれすら見えず、個性がなくなり、余裕がなくなり、実利にしか興味がなくなる功利主義がはこびっている。学問をする余裕や力がなくなっていて暗黒時代に向かっているということを述べられていると思う。まさに理性、感性、知性がなくなるからものが考えられない。

コロナにしても経済にしても政治にしても考える力がなく余裕が全くないので功利主義が蔓延る。なにやら今の時代のことを議論しているような気がするのだが。。。65年経って。今は暗黒時代であるということがハッキリとわかった。

本のレビュー8【一生モノの英語力を身につけるたった一つの方法】澤井康祐著

私は29歳まで日本で過ごした純ジャパである。それからアメリカに2年3カ月そして今はオーストラリアに来て7年2カ月が過ぎてしまった。英語に関してはマンネリ化を感じていて日常生活で困るというか困っても無視するメンタルができてしまったがために向上心を忘れてしまったかのようだ。アメリカにいたときはものすごく努力していたがオーストラリアに来て努力を怠るようになってきた。むしろ特に給与が上がるわけでもない英語学習に時間を割くのは効率が悪いようにも思えてきていた。私は科学者であるから英語で論文を書くことが大事だし常に論文を読んでいて、またいろんな文章を英語で書いているが成長している気が全くしていなかった。数年前まで英語で本を読むのが好きで英語の本をたくさん読んでいたが私の最終目標である本を楽しみたいというレベルまで来たように錯覚してしまった時期もあり、あるとき難しい本に当たると読むのをやめてしまうなどということが起こった。何が起きたかは心理的には明らかで早く読みたい気が勝ってしまっているのだ。はやく情報を得たいという気持ちである。たくさん読まなければという気持ちもあった。ここで気を取り直そう。ゆっくり正しく読む。そして正攻法で英語力をきちんとつけて長い目で英語をきちんと物にしたいと思い直してところでこの本に出会った。

本書の前半では井筒俊彦、西脇順三郎などの語学の天才とされた人々を紹介し彼らが語学学習者としての最高地点というものを示しながら、ある一定上の語学力に達するためにはまずは膨大な文法理論の習得を目指すべきと説く。天才たちの知的探求心のレベルの高さにおののきながらも著者の言わんとしていることは勉強は平凡で地道なものを徹底的に重ねているにすぎないということと理解した。前半からところどころで参考書の文献は紹介されており、結局受験勉強が大変役に立つのだということを示されている。結局そこに行きつくのかと思うと後悔また自責してしまい落ち込んでしまう一方、やれることは地道にやるだけという覚悟もできる。なので自分自身は文法の勉強と精読にこれから力を割こうと決意した。一方で英語の本を読み続けるのはやっていきたい。毎朝研究を始める前に必ず30分の教科書を読んでいるが真面目に読むと1-2ページしか読めず一年で一冊しか読めないことになる。物理学の場合は英語が読めないのか数式や論理が理解できないのか微妙なところもあるが、気の遠くなる作業であきらめたくなるがこれしか道はないのだなと最近覚悟を決めた。著者の言うようにとにかく英語学習においてはどこかの段階で覚悟を決めて、緻密に分類された文法知識を大量に身につけなければ、普通の人は高みに達することができないのだという。今まで逃げてきた自分が情けない。大量に読んで聞けばなんとかなると思っていたが、これからはきちんと勉強します。

その後、読むことに話が移っていく。文法の基礎力を固めたら読解演習だと説いている。読む、聴く、書く、話すの四つの技能のうち、読むがすべての基本だからだ。読めるからこそ、聴けて、書けて、話せるのだから。前半でも文学の理解が語学習得の最終地点であることは間違いないと言っている。またそこに行きつくまでは地道な語学的鍛錬が必要なのだとも。高い読解力は聴く、書く、を高いレベルで行うための前提の力であると言ものでなく、現代においてはこれまで以上に不可欠なものになっているという。

これは我々物理学者でも同じで現在では簡単に論文がアクセスできるようになってきているし研究者の数も過去よりも多い。まずは論文を検索して今まで研究がされていないかどうか調べることもある。また最近の論文の参考文献は以前よりも多いと感じる。研究者も論文をこれまでよりもたくさん読んでいる。しかし高い読解力は物理を理解する力と英語を理解する力両方があり、物理の論文ではもしろ物理の理解の方が大きいように感じるが、常に思うことはきちんと読解する重要だということ。物理のような科学の場合、きちんと物理を理解したら必ず疑問や次への研究のアイデアが生まれてくる。さらに著者の意図や研究の方向性なども見えてくると研究が楽しくなってくる。一方で論文を読むのは仕事ではない。論文を読むのは仕事の準備段階だ。論文を読むのは過去の研究を知る勉強で、それから先に進む研究ではない。しかしながら、過去に積み上げられた研究はたくさんあるしそれを理解しなければどういう研究をするかというスタート地点にも立てない。なので大量に読まなくてはいけない。限られた研究の時間では論文を丁寧にゆっくり読む時間を取れないような焦りが出てくる。私はここにきてやはり急がば回れで論文をしっかり丁寧に読むということをやり直したい。そしてより良い論文を書きたいと思いながらたくさんの論文を読んでその読解の質をあげていく努力を続けて行きたい。

その次には語彙力。余り特筆してここに書きたいことはないが語彙力は自分なりには結構発音と一緒に数年頑張ったが僕個人的には熟語が弱い気がしている。熟語が問題なのは意味が分からない場合全く意味が予想できないから覚えるしかない。著者が推薦していたいくつかの本を読み直して覚え直そうと思う。単語耳で8000語を何百回も発音続けていたのは30歳前後であの時には単語しか覚えていない。単語は文章が読めなくなるほどわからないことはほとんどないが熟語実際に出てきて意味が分からないこともあるので復習をしておこうと思う。

その後は音読と筆写を行うことによって英語のセンスを鍛えることを鍛えられることが書いてある。音読は環境の関係であまりしなくなったが前はかなりした気がする。筆写が良いというのは今まで考えたことがなかったのでコツコツと良い英文を見つけてやっていこうかと思う。ここは自分自身は英語で読んだ本を英語でレビューするということをしようと思う。今まで一冊読んだらレビューしていたがこれを章ごとにすることによって本の理解と筆写を兼ねられるかもしれない。何度もやれということだが発音と同じで英文をきちんと身に沁み込ませるという作業なのだろう。

その後私が興味を持ったのは第八章のネイティブスピーカーの限界と底力というところ。たぶん自分自身は本書で書かれているこのレベルなのだと少なくとも自分では思いたい。論文を書いて初稿の時点でネイティブにRead wellといわれたので意味は通じているみたい。ただし逆に日本人にネイティブに見てもらいましたか?って聞かれるので文法の間違えが目立つのだろう。ネイティブの上司を持ったことがあるが意外とネイティブに文法を直されるどころか僕ですらネイティブが間違っているのではないかと思ったところが幾度もあった。なんとこれが相手は雑誌のエディターレベルなのだ。なのでネイティブでも本気で読まなければ論文の修正は容易ではない。ただネイティブの底力といえば私の同僚で最も英語力があると思っているネイティブは同じ文字数で論文の内容を変えずに全体を書き換えられるほどの英語力がある。これを聞いたときにはさすがにこれは無理と思って、これからは彼に論文を見てもらいたいと常々思っていて、コツコツと自分の論文を書いていこうと思っている。アメリカにいたときの上司は英語ネイティブではないが相当の語学力の持ち主で彼女の論文は通りやすいのだ。物理で英語の論文を書いた場合はやはり物理で面白いっていう論文を書いて、ネイティブの人もこの物理は面白い何とか論文が通るようによい英語にしてあげたいって思わせなければきちんと読んでもらえないのだと思う。なので本職の物理でよい研究をする、そしてなるべく早く見てもらえる原稿を仕上げてたくさんいろんな人に見てもらう、そしてたくさん書くしか道はないのだろう。

第九章で英語に吞まれないためにという章がある。ここも面白くて英語推進派と反対派の対立があって両方論理は通っていることを説明している。なるほどなと思う。私は少し反対派の傾向があったがこれからはフラット寄りになっていくと思う。結局、英語ができる人は日本語もできるロジックの問題だというのは面白かったし。私に置き換えると良い物理かな。きちんと良い物理を確立できれば面白いことを書けると思う。結局は論理的構成力の差である。自分自身の場合も自分が組み立てた物理の成果がハッキリとしていれば書きやすい。この章では語学の天才の母語に回帰したことも書いてあり、レベルは違えども40手前にしてまた母国語で古典などを読み直している私には妙に納得できた。結局英語に呑みこまれないためには緻密に文法理論を学び、そのうえで理詰めで英文を読解し、同じような姿勢で英作文に取り組むということだ。ああ、今まで怠けていた自分が情けない。論文もなんとなくたくさんの論文を読んでなんとなく苦しみながらやっと原稿を仕上げていたがそれぞれ自分が書いているものに文法的な解釈をしながら書いたことないなと。それは文法に対する感度があがっていないことを示していてやはり文法を勉強して英語に戻ると感度があがっているからいろいろなことに気が付いたりする。やはり文法をたくさん勉強してきちんと読解して論文書いていきましょう。英訳と日本語訳についても書いてあってこれについては真面目に良い英文を見つけたら日本語に、良い日本語を見つけたら英文にしていこうと思う。それはこのブログに上げていくのも良いかもしれない。

最後にたくさんの参考文献があり、これは大変参考になった。英語でも語彙力や文法の勉強もしている。論文でも自分の文体を作るまでには程遠いがモチベーションはあがってこれからも楽しみながら頑張っていきたいと思えるようになった。これからも正攻法でコツコツ勉強しながら書き続けていこうと思う。

本のレビュー7②【決算書ナゾトキトレーニング】村上茂久著

著書は大学・大学院卒業後バンカーとして働きながら経済と金融の読書会などを多数行ってきた方である。現在はコンサルタント会社でCFOをしながら今年には財務コンサルティング会社を創業された方で『理論と実務の架け橋』を人生のコンセプトとして活動されている。 前半のまとめは前のブログ(https://www.shinichiroyano.com/2021/12/28/本のレビュー7①【決算書ナゾトキトレーニング】/)に書いたので今回は続きである。

第五章では『決算書』の読み方はプロでも差が出るということについて書いてある。

企業の情報はIR(Investor Relation)の三つの一次情報から得ることの大切さを説く。その三つは有価証券報告書、決算短信、決算説明資料。さらにこの三つに加えて非財務情報例えばESGに対する活動などは統合報告書を見るとよい。

有価証券報告書公認会計士が監査したものでもっとも信頼性がある
決算短信監査が法律上は求められていないが、速報性に優れている
決算説明資料決算の情報がわかりやすくまとめれているダイジェスト版
統合報告書企業に関する非財務情報が書かれている
決算書の種類

著者が主張しているのは読み解く視点を増やすということ。例えば銀行が融資するときに判断するときと、株主が株式投資するとき決算書の見方は違う。融資する側から見るのは企業の安定性。デットを見る。ここではB/Sの観点では自己資本比率や流動性比率、P/Lの観点からは黒字かどうかが大切。株式投資の視点からはエクイティを見る。グロース株とバリュー株ではまた見方が違う。グロース株ならば長期的な成長率をPERやPSRで見たり、バリュー株だと同業の他社などと比べてPBRやPERがどうなっているかどうかを見る。融資側と投資側は利益が相反するときがあることを留意しておくべき。最後にアセットの視点も重要である。

僕個人的にはグロース株にバリュー株両方投資をするが意識的に分けてはいてもあまりそれぞれの立場で企業をチェックするということを怠ってしまうことがある。これはただのめんどくさがりなのだが、どの株に投資しているときにでもいろんな方向で会社を見てみて問うことは大事だとこの章を読んで思った。

著者が示すように三つの視点(負債、純資産、資産それぞれの利害関係)というものを教えてもらうことでこの三つの視点でとりあえず見てみようと重要な視点をもらったと思う。会計の本を読んでもそれぞれの方法をたくさん教えている(ように受け取ってしまう)だけで正直何から始めたらいいかわからない人がほとんどだと思う。とりあえずこの三つの視点からみてみる、それにはどの指標を見ようかと考えるだけでかなり展望が開けると思う。

第六章では『エーザイ』を題材にESG経営について、

ここまでくると最近話題のESG経営などについてはどのように決算書で情報をとり判断すればいいかクリアになってくる。ESG投資は世界の潮流になっていて、私個人的にはESG投資に対してかなり懐疑的なところがあるが、まあお金の流れ的にはもうそうなっていて抗いようもない。ここでもポイントは先の章を通してわかったように非財務情報をどこで手に入れるか?がわかってきたと思う。

著者は2006年当時の国連事務総長だったコフィ―・アナン氏が機関投資家に対して責任投資原則(PRI)について説明している。

エーザイは売上高は日本の製薬会社の中でも6位に甘んじているいるが、PBRで見ると2位に躍り出る。これは会計的な財務情報だけでなく、非財務情報を市場や投資家が評価していることになる。

ファイナンスで考えると企業の価値は究極的には2つの要素から構成されると著者は説く。それは『将来生み出すと予測されるキャッシュフロー』と『割引率』。

企業価値= 『将来生み出すと予測されるキャッシュフロー』÷『割引率』

事業におけるリスクが小さい企業ほど割引率が低く、リスクが大きい企業は割引率が高い。ESGの課題に向き合うことで、長期的なリスクを軽減できる。さらにエーザイが凄いのはパーパスという自社の存在意義まで意識して環境、社会、ガバナンス(ESG)経営してきたこと。こういった非財務情報を数値化して考えることは難しいことと考えられるが、エーザイはROESG(ROE+ESG)モデルを使っているという。

またエーザイは非財務情報を以下の5つに分解して考えている。

知的資本知的財産権や暗黙知を含む知識ベースの無形資産
人的資本従業員の能力、経験、意欲など
製造資本製品・サービスを作り出す力
社会・関係資本社内外の人的ネットワーク
自然資本製品・サービスを提供するうえで利用できるあらゆる環境的リソース
エーザイが考えている非財務情報の5つの資本

なるほどかなり難しい非財務情報もクリアにはなってきた。おそらく決算書を読みながらこの会社は何を大切にしているか読みながらナゾトキをしていく必要があるのだなと思う。

そのあと著者は重回帰分析を説明しているが、ここはあえて説明は外そうと思う。科学者の私からしてはこの重回帰分析はなんというか少しあまり心地が良くない。とはいえ著者の説明に何ら問題があるわけでも反対があるわけでもない。ここでは逆に一物理学者の観点からしてコメントしておこうかなと思う。

このように重回帰分析などをして会社や組織が重要なパラメータを抽出してたとえばKPI(重要業績評価指標)などと名前を付けてそのKPIを改善することを目標とするようになる。このことは全くもって悪いことではない。私にもこのKPIという言葉を私のような科学者にも求めるようになってきた偉い人々がいて、KPIをなんとかしろみたいなことを言うようになってきて戸惑うということは多くなってきた。面白いことにKPIを設定する人とはほとんど会話もしたことないし、また彼らを現場にみたこともないのにある日突然KPIが上から降ってくるということ。そしてデータドリブンなどといってくる。愚痴になってきたが。

ここで愚痴はやめて、科学者からのコメントを入れるとすれば目的と目標をしっかり意識しておくことをお勧めしたい。もともと(重々説明しておくがエーザイに対して何かを言っているわけではない)目的があってその目標としてみるべき指標が出てくるものだとおもう。しかしながら人は容易にそれを忘れてしまって目的と目標の入れ替えが起こってしまうように見える。そして目的のために目標があり、目標達成をモニターするためにデータを取り始めるのだが、えてして取るデータは得られやすいものにしてしまうということ。そしてそれにとらわれて目的を失ってしまう組織や個人になってしまうと意味がない。すこし抽象的なってきてわかりづらかったと思うが、例えば教育を考えるときには子供の学力の向上を目的として目標とするパラメータを導入する。しかし学力を評価するのは難しいため、簡単に計りやすいテストの点数などにしてデータを取り始めて、そして解析していくうちに、いつの間にかテストの点数があがる方法を考えるようになってしまうということ。たとえば科学者の場合は論文やその引用数が評価されるようになって科学者自体が科学の重要性や面白さなしにたくさんの論文を書いたり引用されやすいテーマを選んだりする。ビジネスも似たような側面があると思う、カンパニーは会社の意味だが仲間の意味もあると思う。何か人に役に立つことだったり、問題を解決するために、まあお金を稼ぐためにっていう人もいるかもしれないが、仲間を集めて作った組織がいつの間にかお金や利益や地位だったりというわかりやすい評価に惑わされて粉飾決算まで起こしてしまうことは滑稽にも思えてくる。科学者や科学者を管理する人々にも、信じられないかもしれないが、論文の数や引用数などでマウントを取ってくる人がいるのだが、果たして世の中はよくなっていくのだろうか。

なので私個人としてはこういった KPI や重回帰分析などをして会社や組織が重要なパラメータを抽出してたとえばKPI(重要業績評価指標)などの単語を真面目に発して社員をコントロールしてくるような人間や組織の言っていることは話半分で聞いておこうという心の余裕を持っていくことをお勧めする。 ある日突然上司がなにか重要そうなパラメータを連呼しだし、何が何でも達成しろなどと言い出したら、とりあえずスタバでも行こう。

第七章では『電通』を題材に企業の値段というものを考える。

会社の値段には4つの種類があると説明している

値段意味算定方法
簿価過去の企業活動の積み上げ決算書
時価上の簿価を現在価値で再評価ファイナンシャルアドバイザーが算出
買取価格買収者の評価評価額×株式数
時価総額上場企業の場合、市場が評価した値段一株あたりの時価×株式数
4つの会社の値段

ここで4つの値段を説明したあと無形の資産『のれん』の説明をしている。『のれん』は企業が買収した先の純資産の時価を計算したうえで、その時価をこえる価格で企業を買収したとき、その差額を『のれん』として自社のB/Sに計上する。『のれん』はブランド力などといった無形資産。電通の巨額損失は『のれん』の減損である様子が本書で細かく説明されている。つまり電通がこれまでに買収してきた企業の価値が下がったことで減損損失を計上した、一方でキャッシュフローの観点ではあまり問題はないということが書かれている。今のところは大丈夫ではあるがこの広告マーケットの行く末次第ではこの『のれん』が電通の足元をすくう可能性もあるかもしれない。

『のれん』についてはなかなか僕らのような門外漢には想像もできない。改めて会計・ファイナンスのプロの凄さを知らされた感じだ。とても勉強になった。

ここまで書いたが私自身は会計やファイナンスを正攻法で勉強した来たことがないので間違えもたくさんあると思うし、ほとんどは著者の説明を拝借した。ただしまとめることで理解がたくさん進んだのも確かでこれからも著者の言うようにいろいろな見方を進んで勉強していこうと思う。ナゾトキトレーニングという本のタイトルは面白くてよかったと思うし。私のような素人こそ決算書を読むときにナゾトキをしていた気がする。しかも解けたこともないが、悩みながら因数分解をしている感じである。たとえばプロの方は5+7=12というような見方ができるかもしれないが私の場合は12が先に決算書にあってそれを5+7などと要素に分解しようとしていくが実際は言葉の定義などが頭に入っていなくてイメージ先行でそれぞれに分解しまい、後で足して12にならずに悩んだりしてしまう。

とにかくこれからも著者にはたくさんのテーマで執筆していただきたくさんの視点を提供していただけると大変ありがたいので続編の登場を期待している。

本のレビュー7①【決算書ナゾトキトレーニング】村上茂久著

著者は大学・大学院卒業後バンカーとして働きながら経済と金融の読書会などを多数行ってきた方である。現在はコンサルタント会社でCFOをしながら今年には財務コンサルティング会社を創業された方で『理論と実務の架け橋』を人生のコンセプトとして活動されている。

私自身は物理学者で株式投資(オーストラリア株中心)をするために決算書を読み始めて少しづつ理解を深めていこうとしている。我々のような会計を理論も実務も勉強したことない素人からすると実際にどこから勉強していいのかわからず決算書を見ながら少しづつわからないことを埋めるように勉強していくしかない。こういった本は本当に助かり今回も大変勉強になった。

本書では7章に分けて話題になっている企業について解説している。なかなかニュースを見ていてもわかっているつもりになっているもしくは実際に企業分析をして何が起きているかまでは追ったりすることはしていないと思う。

著者は今の時代に決算書を本質的に読めるようになるには①生きた決算書を元に②多様な視点から会計とファイナンスの知識を用いて③複雑なビジネスモデルを理解することが肝要だと説く。ここではそれぞれの章で学んだことをまとめていきたいと思う。

第一章では『メルカリ』という題材を元に赤字でも絶好調であるを示す。

損益計算書(P/L)や貸借対照表(B/S)だけでなくキャッシュフロー(CF)計算書(C/S)を見ることの重要性を説いている。見るべきCFは三つあり、営業CFは本業の活動により稼いだもの、投資CFは設備投資や資産の売却によるもの、財務CFは資金調達や返済によるものである。著者は特に営業CFに注目せよと説く。これは営業活動から得られるキャッシュフローで簡単に言うと本業を通じてどれだけキャッシュが生まれたかを示している。

もう一つはネットデット=有利子負債ーキャッシュを財務体質を見る指標にしようということ。ネットデットがマイナスというのは実質無借金経営ということ。メルカリはネットデットは黒字になっている。

物理学者として参考になったのは育てる事業を見極めるPPMというところ。市場成長率と相対市場シェアで2×2のマトリックスを作り花形(Star)、金の成る木(Cash Cow)、問題児(Problem Child)、負け犬(Dog)とありそれぞれの事業から生まれるキャッシュフローを金の成る木から問題児へと再配分し問題児をできるだけ花形に成長させることを理想としている。一方負け犬への投資はできるだけ減らして、なるべく撤退することが望ましいとある。

私は物理学者だがこの研究成果を生み出すうえで無意識であるがこういうことを目指していた気がする。例えば私は今の管理している装置は花形や金の成る木から生み出せていてその成果が出ているからこそ未知の科学や技術(問題児)に研究資本を投入できる。未知の科学や技術はいまだにどう使われかも想像もできないため、周りからは需要が無いからやっても無駄とか、何やら誰も使わない難しい科学や技術に挑戦しているなどの批判(特に同じ科学者から)がされがちだが一度手法を確立してしまえば新たな市場(物理学の新分野)を開拓できる可能性がある。花形や金の成る木ができた後あとさらに新しい技術に挑戦するのは疑問にもたれたり、理解できる人がいないため正当な批判も得られないこともあり、政治的にはかなり難しい立場に置かれる。批判はつらいところだが、花形や金の成る木などで成果を挙げているからこそ、批判があっても進むことを黙認されるところだ。一方で負け犬への投資を下げることは政治的にはさらにもう少し難易度が高いかもしれない。装置の建設などに先行投資した場合既存の研究が負け犬でも何としても回収したいという政治的な思惑から負け犬でもとにかく装置を使えというプレッシャーがかかる。ここは難しいところだ。なぜなら研究の場合はやってみないとわからないことがあるし、その研究に対する私の判断が間違う可能性も多くある。なので一度は少なくとも負け犬と現在評価されている研究でもやってみる。どれが当たるのかわからないのだから。でも負け犬の難しいところは負け犬の理由があるということだ。大抵かなり高難易度の実験力と解析力が求められ研究資本を大きく投入しながら成果にならない苦悩の種になったりする、またなっても市場が大きくないため注目されないということもある。残念だが。一方でこれまでは負け犬として一昔前に科学者があきらてしまった課題が教科書や論文の片隅にあって忘れられていたりもする。当時では解決できなかった問題が数十年たって最新の理論や実験技術によって再度解決できうる問題になったりする。科学に対してはこれからも私なりの挑戦を続けて行きたい。

第二章ではほとんどのプロでも分析できなかった『ソフトバンクグループ』という巨大な企業群の決算書を読み解く

おそらくソフトバンクのことは日本人の誰しもが興味を持っていたとしても自分で分析して理解している人はほとんどいないだろう。ほとんどのプロでも孫さんの質問に答えられなかったというのだから。仕方ないので多くの素人やメディアはソフトバンクの決算が出たときには孫さんのプレゼンテーションをみてわかった気になったりしているのではないか?本書の解説にも出てくるようにとにかく関連企業が多すぎて素人では分析する時間なんて全く取れない。ソフトバンクグループは1400社ほどの子会社、500社ほどの関連会社の株式を所有している。

それらは以下の①連結子会社②持分法適用会社③ソフトバンクビジョンファンド(SVF)に分けることができるがこれら関連会社は ①ではソフトバンクKKやZホールディングス、②ではアリババ、③ではUber,Grab,Weworkなどがある。これらが本体のP/LとB/Sにどう連結されるか整理すると

連結P/Lに計上されるかどうか?①連結子会社 ②持分法適用会社 ③SVF
売上高
投資損益
当期純利益
連結P/Lに計上されるかどうか?
連結B/Sにどう計上されるか?

③SVFに関してはFVTPLといって金融資産の時価と簿価の差額を損益に反映させるという会計処理が行われるというので素人には全くノーアイデア。著者の説明を受け入れるだけだ。でもわかったことは、①連結子会社は簿価で計算される一方③SVF出資会社は時価が反映されると説明されている。また②の持分法適応会社は持ち分に応じて利益の一部がソフトバンクに計上される。例えばアリババは持分法適用会社であるから、持ち分に応じて利益の一部がソフトバンクに計上されるが株価は変動してもソフトバンクGの利益に直接は影響を与えないが、UberはSVFの出資先だから株価が変わることで時価が変わりそれに応じて ソフトバンクGの 利益が変動する。

したがってこれらの整理をするとどのセグメントがソフトバンクの当期純利益に寄与しているのかわかるようになる。セグメント別の利益はSVFがおよそ4兆円で71%、ソフトバンク事業が約8500億円で15%そしてSVF投資先の株式売却による実現損益が約7600億で13%ほど他は1%ほどしかない。ここからわかることはソフトバンクの利益の多くは含み益だったということ。ソフトバンクに投資をするかどうかはここらへんの構造を理解したうえでSVFが所有しているスタートアップ群が今後も時価を成長させ続けていくかどうかを信じられるかどうかというところか?リスクはかなり大きそうだがソフトバンクを所有することによりこれらのスタートアップ群が成長していくことを見守ることができる権利の一部としてとらえるならばSBGに投資をする価値もあると思える。

第三章では『Slack』という300億円赤字企業が3兆円で買収されたナゾを解く

Slack社はセールスフォースに約3兆円で買収されたが買収された時点では約300億円の赤字。どういう意図でセールスフォースはSlackを買収したのだろうか。ここで見るのは会社の値段である。ここでは純資産に着目する。これには二つの見方がある。

①純資産の簿価=過去における企業活動の蓄積=会計上の評価

②純資産の時価=未来を見据えたマーケットからの評価=ファイナンス上の評価

まず① 純資産の簿価 に関して図にすると簡単で

今回セールスフォースは純資産8.5億ドルのSlackを277億ドルで買収しようとしている。ということは純資産の(277/8.5)=約33倍で買収しようとしている。これはまさにPBR(株価÷一株当たりの純資産)と同じ考え方。PBR=1の場合は純資産の簿価と時価が同じ状態。PBR>1の場合は株主にとっては会計上の純資産の簿価よりも多くの価値を持っている状態でPBR<1の場合はその逆。ここでもセールスフォースによるSlackの評価が高すぎないか?と思えてくる。そこでPER(株価÷一株当たりの当期純利益)的な評価をしようとするがSlack社はまだ赤字。そこでPSR(株価÷一株当たりの売上高)を使う。計算をするとPSRでも33倍。まとめは本書の図表3-4が大変わかりやすい。つまり純資産から考えても今の売り上げから考えても33倍ほど高くセールスフォースはSlackを評価しているということになる。ここまでは①の考え方で過去つまりこれまでの成績、会計上の視点からの評価である。

では未来志向のファイナンス的にはどう考えるか?ここでSlackのP/Lを細かく見てみると開発費と広告宣伝費にお金を使うことで成長をしようとしているのがわかってくる。なぜこの宣伝広告費が高くてそれでも成長をしていく可能性があるのかがわかるように著者は説明を加えていく。ここでSaaSビジネスで理解する5つの指標が説明されている

指標日本語説明
CAC =Customer Acquition Cost顧客獲得コスト一人もしくは一社あたりの顧客獲得に要する費用
MRR = Monthy Recurring Revenue月次経常収益サブスクリプション等の経常的に計上される売上高や収入
LTV = Life Time Value顧客生涯価値一人もしくは一社あたりの顧客から生涯にわたって獲得できる収入
Churn rate 解約率すべてユーザーのうち、解約したユーザーの割合
NDR = Net Dollar Retention Rate売り上げ継続率一年前に獲得した既存顧客の売上高をどれだけ維持できるかの指標
SaaSを理解する5つの指標

まずCACはSlackは一社当たり一万ドルの顧客獲得費用を費やしている(新規有料顧客数÷セールス及びマーケティング費用)。次にMRRはSlackのようなビジネスはサブスクリプションで毎月毎月入ってくる収入でSlackは一顧客あたり550ドルを得ているので18.2カ月でCACを回収することになる。LTVでは一顧客あたりの収入×継続月収。これはLTV=一顧客あたりの収入÷Churn Rate(解約率)にしてもいい。ここから一万ドルを回収するためには18.2カ月以上継続してもらいたい、そのためには5.5%以下にChurn Rateは押さえなければいけない。凄いことにSlackの場合は逆に解約よりも既存の有料顧客が純増している状態。Slackはみんなが使っているから私らも使い始めようという状態になっている。NDRはすでに獲得した顧客の売上高をどれだけ維持できるかでSlackのNDRは120%以上を維持している。これらにより過去五年間Slackの年間収益は増え続けている。ここをセールスフォースは評価しているものと考えられる。

順風満帆のようだが後はマイクロソフトのTeamsとの戦い。(ちなみにうちの会社はTeams)今のところはTeamsの方が大きく成長しているとこのことでSlack側も焦りがあるのかもしれないというところ。私はまだまだ両方使いきれていないが私の研究所だと原子力関連施設でもあるからか特に情報管理が厳しくなかなか自由につかえず両方がうまく使えていないが、これからも両方試しながら今後を見守っていきたい。

第四章では『GAFA』の中でも売り上げがNo.1であるアマゾンについての深堀

アマゾンはいまだに売上高が年20-30%も成長しているモンスター企業。GAFAの中でも今は売上高No.1。アマゾンは利益ベースでみると減価償却費があるためあまり利益が出ていないように見えるがキャッシュベースでみると減価償却費は実際のキャッシュアウトはしないためキャッシュが残っている様子が見て取れる。この減価償却費の大きさを見るとアマゾンが過去にいかに多くの投資をしてきたことを示している。アマゾン自体はキャッシュを生み続ける経営をしているということになる。

ここではまず最初にCCC(Cash Conversion Cycle)で資金の回収期間を見ると

CCCの説明

アマゾンはCCCがなんとマイナス。ふつうは仕入れをして在庫をもって販売という流れ。プロセスは変わらないもののアマゾンの資金の流れは商品が売れて入金があって支払いの流れ。アマゾンのビジネスモデルはアマゾンが秘密主義であることからよくわかっていないこともあるが、アマゾンがモンスター企業であるからこそバーゲニングパワーが強く(強すぎて)こういったことが可能になっているかもしれない。

本書をここまで読み進めるとアマゾンは利益のほとんどを投資に回している企業という表現よりも『営業CF(一章に出てきた本業で稼いだCF)のほとんどを投資に回している』ということとが本書を読み進めるとわかってくる。ここで営業CFと投資CFからフリーCFを説明している。

フリーCF= 営業CF+投資CF

これは事業活動を通じて企業にのこり、自由に使えるお金になる。これがプラスであれば企業は銀行など債権者に返済したり、株主に資金を還元したり、さらに将来の投資にキャッシュを回したりできる。

そしてアマゾンは生み出したキャッシュで何に投資してきたのだろうか?大きな成果としては二つ。一つはAWS(アマゾンウェブサービス)もう一つは物流。アマゾンは今やEC事業の支えとなる物流とクラウドビジネスの上流を自前で押さえている点が凄い。上流を抑えているからこそBtoBが強くNetflix、Zoom、SlackなどはAWS上で動いているという。

ここまで第四章まで書いてきたが長くなってきたので二回に分けようと思う。読み流すこともできるがきちんと読むと大変重い本だった。。。。

本のレビュー6【勝ち続ける意志力】梅原大吾著

私はゲームをあまりやってこなかったのでゲーマーとしての梅原氏の凄さを存じ上げなかったのだが、この本のタイトルに惹かれてこの本を取った。また数年前もになるが友人たちが読書会をしていて盛り上がっていたのを記憶していて、出遅れていたがいつか読んでみたい本であるとも思っていた。ゲームといえば自分自身はチェスの史上最強の世界王者Garry KasparovのHow Life Imitates Chessという本が好きで何度も読んできた。世界一のゲーマーから学ぶことが多いのではないかとも思っていた。本書では特に勝つことではなくて勝ち続ける意志力としたところに興味があった。

『勝つことに執着している人間は勝ち続けることができない。』

Garry氏の本からの学びも合わせて彼のこの文章で言わんとすることを自分なりに咀嚼して考えてみた。前後の文章を読んでみてもおそらく彼が言っているのは戦略と戦術の違いなのだろうと思う。もしくは目的と目標の違い。勝つのは目標かもしれないが、目的は負けるときもあるが勝ち続けるよう努力し続けることで得られる自分の成長かもしれない。僕が思ったのは勝つことに執着している人は戦術にとらわれていて、勝ち続ける人には戦略があると私は考えている。おそらくこれは梅原氏が世界一でありそのポジションを守り続けたからこそそういう考えになったと思う。これはGarry氏も同じ境遇だと私は考える。我々が勝つことを目指すとき例えば世界一を目指すときには世界一の人々を倒すことを考える。したがって我々に必要なことは相手を分析し、自分を分析し、自分の戦術を立てる。相手に対する勝ち筋を見つけてそれを訓練して相手を倒そうとする。一方で世界一の立場は違う。世界一の場合は世界中から挑戦者がいるわけでそれぞれの戦術に対応する形で相手を分析する時間はない。したがって総合力を鍛えてどの方向に対しても対応できるような戦略的に能力を鍛えると考える。常々思っているのは戦略と戦術をきちんと分けて考えている人は少ない。僕の考えでは市場が大きく変わらない、今の世界経済の様に緩やかに大きくなっている市場では戦略を取るべきなのは市場で世界一を取っている企業や国だけである、同じゲームで小さな企業が戦略なんか立てても大きな企業のリソースには勝てない。戦略とはいわば正攻法で勝つということ。小さな企業に必要なのは戦術である。戦略ではない。例えば今の日本に必要なのは戦略ではない戦術である。実際はまだ世界第三位のGDPを世界の中では大きな国の一つなので戦略のことも意識しながらでも今はより良い戦術に集中してまずは勝っていかないといけないと考えている。

『勝ち続ける人、負ける人』『99.9%の人間は勝ち続けることができない』

私が好きなのは彼の勝ち続ける意志力である。なぜならある程度勝つと人は満足してしまうからだ。私の場合は研究であるがPhDを取るような20代のころには自分がどれだけ行けるか?成長できるか?だけを考えて一生懸命自分なりに研究をしてきて誰にも負けたくないって思っていた気がする。一方で30代になりキャリアが安定してくるさらにお金も安定して入ってくるようになると勝ち続ける意志、挑戦し続ける意志っていうのが試される。自然と成長し続ける意志出てくるっていうのは大抵の人には難しいのかもしれない。家族ができる人もいて優先順位が下がる人もいるだろうし、お金には余裕が出てきてハングリー精神などはなくなって来たりするかもしれない。例えば英語も話せない時は一生懸命勉強していた今では英語で困ることなんてほとんどなくなってしまった。そのような状態でも努力をし続けるというのは難しい。特に収入があがるわけでもなく褒められるわけでもない。勝ち続けるっていことに対してなかなか努力し続けることができないのではないだろうか?僕も甘くなってきたからこそ30代後半になって危機感が出てきた。成果を挙げることは挙げ続けることはまた違う努力がいるということだろうか?逆に梅原氏自身にもそのような問題意識があるからこそこういったタイトルの本になったのかもしれないと考えた。

『当たり前のことをやり続けた人間が、今回に限って勝てたということを忘れてはいけない』

この感覚も素晴らしいと思った。勝つために努力し続けても時には負けるときもあるしそれが明らかに運の時もある。運は引き寄せるものではあるが、勝ったときに運があったと自分自身で意識して慢心しないことが肝要だと思う。ゲームの場合は何度も挑戦できるし失敗してもまた次がある。最近は私の実験に対してもそう思うようになってきた。私の場合はテニュアを取れているし失敗し続けることはよくないが成功も増えてきたので可能性がある研究は是非是非挑戦して少なくとも学べるものがあれば次につなげられる自信がある。そしてその過程の中で新しいアイデアは常に生み出せる自信ができてきた。研究にとっての当たり前のこととは過去の研究はよく調べたうえで実験は正しく行い正しく記録し、解析は正しく行いファクトを集める。それが成果になるか?実験が成功するか?さらに言えば人々に受け入れられるか?必要な発見になるか?などそこらへんは運にも強く関係する。我々科学者はわからないことを調べているのだから当たり前のことはしながら新しい発見が出てくることを願ってまた次のプロジェクトにつなげていく。それの繰り返しである。当たり前のことを続けていこう。

『自分の実力をあげるためには、まずもって目の前の勝負に全力を注ぐ必要がある』

これは私の研究にも通じるところがある。研究は大体短いもので3年で普通に良い研究をすればなんだかんだで10年位は掛かってしまう。それは僕の未熟さのせいでもあるが。その過程でやはり飽きてきて次のプロジェクトのアイデアが出てきてどんどんそちらに注意が向いてしまうことが多々ある。でも重要なことはきちんと論文にまとめて細かいところまできちんと詰めて終わらせないと成果として残らない。論文として共著者やレフェリーやエディターを納得させて論文として出版してしまうまでの過程をしっかり経ないと終わらない。ここはExecutionという言葉が一番近いと思うが文字通り仕留めるというところ。しかし細かいところまで詰めて詰めて終わらせるのは本当に骨が折れる仕事である。科学者は新しいアイデアを出して研究を始めるところが一番楽しくて、最後のExecutionはかなり精神的にも辛い。かなり研究に時間と労力を費やしてもものすごい批判を受けたり英語の細かいところで間違えを見つけられたり、これまでの研究結果との整合性を確かめたり、論文の中でも論理を検証し自分が納得した形でストーリを完成させたり。この最後の詰める作業を逃げずにやることで本当に自分自身で論文をきちんとまとめて終わらせたという感覚を得られる。実力をあげるにはこの目の前の結果としてある事実を証明するとう勝負に全力を注ぐ必要がある。

『努力を続けている人は誰かの目なんか気にしていないと言える。周りを気にすることなく、自分の世界に没頭できている』

確かに。この領域に達するにはしばらくかかってしまった。やっと自分の専門では自信をもって自分がトップランナーであるという自覚が出てきた。あまり周りがどう思うかということは気にしなくなり自分の中でコンシステントで物理学に必要なイノベーションを起こしていれば誰にも迷惑をかけていないし自分の研究に没頭できる。

『介護の仕事を始める』『施設内の年齢を重ねた人ができることは本当に限られていた』

梅原氏が凄いのは介護の仕事をやっているところ。かなりのキャリアチェンジである。ただその後またゲームの世界に戻ってきているが、この介護の仕事で得た経験というのはかなり影響を与えているように感じた。私自身はこのようなキャリアチェンジができる自信は全くない。彼のやったことはすごい。高齢者の方々と触れ合うことにより自分がしたいことは若い健康な時にやっておかないといけないと学んだのだと思われる。

『目的と目標の違い』

大会は一つの目標であり、目的は自身の成長という梅原氏の話。形は違えどもこれも意識してきたところ。私の目標は論文を公表することで目的は知識を生み出すことである。いずれは私自身が実行するだけではなくて知識を生み出すシステムや組織などを作り出すことも広義には入ってくる。これからも目的のために目標という的を狙い続ける。目的のために目標を狙い始めたは何かが狂い始めているサインである。

『自然体で勝負に挑む』『絶対に負けられない思っているプレーヤーは大体土壇場で委縮してしまう。一方で日々の練習に60の喜びを見出していると負けても毎日が楽しいから大丈夫だと、気を楽にして自然体で勝負に望むことができる』

彼とは少し状況は違うは僕の場合はこれを実験の場数と考えることができた。私の研究には原子炉や加速器を使う。したがってビームタイムと呼ばれる実験時間は研究者に割与えられた中でこなすことが要求され非常にストレスフルであり、効率よく確実に実験をするようにトレーニングされてきた。最近になってやっとたくさん時間を獲得する政治力も含めた実力がついてきたことにより良い多くのさらにより難しい実験に挑戦できるようになった。出てくるアイデアも増えてとにかくたくさん量をやり学びながら新たな実験をしていけるようになる余裕が出てきた。自然体で勝負に挑むとは私の場合は必要な準備はしながら過剰な期待をせずにたくさんのアイデアをもとにしっかりと実験するということにに対応する。フラットな精神でどんな凄いアイデアでも時々当たればいいと思えるようになった。科学やイノベーションはそんなもので計画されたものから大きな成果が出るというのはまれなのだから。

『今が一番強い』『最高傑作は次回作』

このことは私自身思えているかもしれない。だんだん研究が楽しくなってきた僕が最近考えているのはこれかもしれない。論文は短いものから2-3年で長いものではまだ終わっていないから10年とか最低でもかかる。一本の論文を終わらせると新しいアイデアが出てきてそれを突き詰めていく。少しづつ良いサイエンスを計画的にできるようになってきたと感じてきていて次こそインパクトのある仕事をと次の論文こそこれまでのすべてをぶつけるというような研究をしていこう。そしたらその次もさらに良いものになる気がする。

『一番の人間は逃げてはいけない』『結果に満足してはいけない』

ここでもGarry Kasparovの話を思い出してしまう。Garryも21歳にチャンピオンに初めてなった日に対戦相手の妻だった方から『これで栄光の日々は終わりよ』とその後の祝賀パーティで言われたという。一番になった人と一番になり続ける人は違う。成功したらその成功からの過信が自分をむしばんでいくと言っていた。その過信から大きな失敗をし学んだ後は勝ったときほどそれ以上の努力をすると。いつの間にか慢心してしまうのは梅原氏やGarryなど世界チャンピオンが意識していることなのだとよく学んだ。私も小さいところで一番を目指していこうと最近決めたが本当に大事なのは一番になってからだそこでもイノベーションを先頭に立って誰よりも高いレベルで速いスピードさらに多く達成できるように常に集中して研究を行っていきたい。

ここまで書いてきたが、彼のアグレッシブな精神性に惹かれたという人も多いと思う。これからもいろいろな舞台で活躍されていくだろうと思うが、この本に書かれていることから学んで少しでも自分自身成長していきたい。私はゲームという分野ではないが科学者という視点からでもたくさん学べることがあったこれからも今の一回の勝利(論文の公表)だけではなく飽きなく楽しんで論文を書き続けるということを目指して頑張っていきたいと思う。

本のレビュー5【語彙力こそが教養である】斎藤孝著

私は日本人であり博士号を取得する29歳になるまで日本で過ごしてきた。その後アメリカに行き必死に英語を覚えたし論文も英語で書いている。そして今は大学生の時に履修していた中国語を再度勉強し始めて一年ほどになる。そしてこのブログでは3か国語で毎日更新をしようとしているがやはり自分の母国語である日本語、そして長年勉強してきた英語、最後に中国語の順に語力があると思う。それはやはり文章を書いていてどれだけ自分の考えていることを表現しやすいか?またそれに幅があるか自分が毎日体感するからである。

言語の習得を通して今まで一番重要だと思っていたのはやはり語彙力である。だから語彙力で言語の習得レベルがわかるし母国語でも差がついてくるのがわかるので本書に言われていることに大変共感する。僕の考えだとある程度語彙力はまずはインプットしていかなかないと話にならない。ある程度のレベルまで覚えないとそもそも言語が話せない。それは僕が外国語を覚えたからわかったことだ。英語だと3000語くらいがまず基本的な会話をするのに必要な語彙力といわれているが、8000語あたりまで覚えるとほぼいろんな分野に対応できるレベルになると言われていたと思う。もちろんこれは語彙の意味が分かるというレベルではなく自分で自信をもって正しく発音でき文章の中でも正しく使えるというレベルがある。正しく使えるように8000語をきちんと扱えればネイティブには及ばなくても英語ではあまり苦労することがないレベルには持っていける。日本語ではそのレベルは簡単にクリアできているのでそれが学校教育の中で自然に身に着けたものだと思う。なので日本語での読書はそこまで苦労しないが、やはり英語や中国語になるとそもそも語彙力が足りてなくて文章を理解できないという場面が出てくると途端に進まなくなる。なので文章の意味がわからなくなり、そして楽しくなくなる。そもそも楽しんで外国語に触れるために語彙力はとてもとても大事だと考えてきた。なので本書を見たときにやはり母国語でもどの言語でも語彙力は鍛えておかないとと思い直したので手に取らせていただいた。

一方で英語や中国語などの外国語に多大な時間を割くことによって日本語力が下がることもしくは上げる時間を費やせないことも意識している。なので人生において外国語と母国語すべて語彙力をあげていきたいと再認識させてくれた本である。

本書読んで再確認したことは物を知れば人生が楽しくなる。語彙力があがれば物を読んだり書いたり聞いたり話したりする知的活動がすべて楽しくなることだと思う。物理学でいうと研究の論理がわかったり、音楽で言うと感度があがって高いレベルで楽しめるようになるということ。僕の場合は語彙力をつけることで読書がもっと楽しくなるのが楽しみだる。ちなみに斎藤孝先生は『読書力』や『原稿用紙10枚を書く力』などの著書が好きでも20代頃に読んでいた。本書ではおそらくインプットの基本は読書であると説いてあると理解したがそれ以外でもインターネットでも映画でも漫画でも意識を変えれば語彙のインプットに使えることを示していくれている。さらにアウトプットの仕方も書いてくれていて大変勉強になった。特に人と住んでいるのでなかなかできないのが残念ではあるが音読は大変参考になった。読書はもっとしていこうと思っている。読書会もしたい。英語でも日本語でもなるべく読んでそしてこうやってアウトプットしていかないと思う。

一方で語彙力はたまにこういう本を読んで意識をすることしないと知らない語彙を拾う意識が薄れる。日本語でも英語でも中国語でも意識してこういう本読んだり語彙をインプットすることにより意識的に新しい言葉が出てきたときに意識出来て記憶するようになるから良いと思っている。外国語だと特に意識しないとさぼってしまっていつの間にか全体の語力が下がってくる。運動不足の様にある日突然衰えに気が付く。一方で語彙ができてくるとすべてが楽になってくる。音楽でも定型のコード進行やリフやリックを覚えておくとより覚えが早くなるのと似ているかもしれない。

また語彙は投資の様に増やしていこうと思っている。短期的には用語集なもので覚えながら長期的には読書で鍛えていきたい。本書で述べられているように一朝一夕で語彙力はつかないが一方で外国語を覚えた僕として強調したいのは長期だけで語彙力を鍛えようとすると成果が見えづらくなる。先ほど書いたように英語では8000語で大抵のことに対応できることが大幅に増えるという経験から教養量の差がつく語彙力を目指すもいいが短期的にはある程度わかりやすい数千語という目標を決めて短期間で短期投資のように勉強してみるもいいものだと思っている。僕の場合は三か国語でやっているのでバランスよく頑張って短期的にも頑張りながら長期的にも楽しめるように。語彙力を鍛えておくと特に読書が楽しくなるのでどの言語でも楽しめるように毎日頑張っていこうと行こうと思う。古典もこつこつ読んでいかなくては。。